12月6日(日)「アドヴェントと聖餐式 」説教要旨

            ルカ1:26-38

    クリスマスと聖餐式とは関係があります。なぜイエス・キリストが神の子として、あるいは「神」としてこの世に来られたのでしょうか。カルヴァンは、「単なる神は、死ぬことがきない。単なる人は罪をあがなうことはできない。だから神は、自ら人となり、神と人とを結び付けたのである」と言いました。
   まず「神」を考えてみましょう。神とは何ですか。「永遠で絶対で、見えないが、すべてをおおって、あらゆるところにおられる(遍在)」、それが神です。しかし、人間には見えないし、神の本当の姿は分かりません。永遠で絶対なるお方だけなら、私たち相対的人間には、見えないし理解もできません。それゆえ神は、「私たち人間に分かるように、ご自分を低くし、いわば小さくなられたのです」。
   大学教授が、幼稚園で話す時、講義の言葉でなく、幼児の言葉で話すでしょう。神が自分を捨て、私たちのように相対的に見える形になったなら、私たちにも神は分かります。それがクリスマスです。ベツレヘムの馬小屋は、その相対性を表しています。  

  この絶対が相対になる事実を、具体的に示したのが、聖餐式です。聖餐に用いられるのはパンとブドウ酒、いずれも目に見える相対的物質です。  
   しかし、最後の晩餐の時キリストは、これをご自分のかかる十字架の死になぞらえました。パンは、十字架にささげるご自身のからだに、ブドウ酒は、十字架で流すご自身の血になぞらえました。  
   すると永遠なる神が、地上の私たちの罪をゆるす十字架の愛という神の永遠のみ心を、パンとブドウ酒という、この地上の物質が表し、指し示しています。それは今述べたイエスという肉の形で、永遠なる神が表されているのと似ています。このようにクリスマスと聖餐式は関係あるのです。  

  しかし、どうしてパンとブドウ酒という地上の物質が、十字架における永遠なる神の無限にゆるす愛を表すのでしょうか。たとえば各自の冷蔵庫にあるパンとブドウ酒も、永遠の神の愛を表すのでしょうか。違います。では、教会にかぎって、教会で買ったパンとブドウ酒には、他と違った意味合いが出てきて、永遠なる神の愛を表すのでしょうか。それも違います。教会で買っても、誰が買っても、そのことに何か永遠の意味が出てくる訳ではありません。  
   では、一体何が、このパンとブドウ酒に十字架の愛の意味を永遠の価値を付与するのでしょうか。聖餐式の初めにイエス・キリストの聖餐の制定語(Ⅰコリント11:23-29)が読まれます。最後の晩餐の時、キリストご自身、  
「これはあなたがたのためのわたしのからだである」、  
これはあなたがたの罪のために流す、わたしの契約の血である」
と約束された、そのイエス・キリストご自身の約束によって、そうなるのです。  

  もう一つ大切なことは、制定語の後の祈りで、それは聖霊を求める祈りです。この出来事を起こすのは、祈り求める聖霊の力です。神の霊ご自身が、このパンをブドウ酒を変えるのです。神の永遠なる愛の出来事に変えるのです。  

  次に問題は、「からだである」。「血である」という、ご自身のからだ=パン、ご自身の血=ブドウ酒という、この「である、イコール」の意味は何でしょうか。 その意味を解明するのを「聖餐論」と言います。昔から5つほど、解釈の仕方があります。右(実体的考え)から左(象徴的考え)まであります。  
  • 1 カトリックの「実体変化説(化体説ケタイセツ)」、パンないしブドウ酒の偶有性は変わらないが、実体がキリストのからだと変化すると考えます。
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  • 2 ルターの「鉄が熱火の中で、溶けてあるように、鉄が火の中にあるように」、キリストはパンとブドウ酒を信仰をもって受ける時、現臨するという現臨説。
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  • 3 バルトの「出来事としての証し」説、説教が「言葉による証し」とすれば、聖餐は、それが今、あなた自身の出来事となった、そのことを証ししている。
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  • 4 カルヴァンの「見えない神の言葉の見えるしるし」説。


  • 5 ツヴィングリの「象徴説」。
 ただ説は解釈ですからいろいろあっても、そこに起こる永遠なる神の出来事は同じです。クリスマスの出来事が、そこで再現するのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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