11月22日(日)「解 放 が 先」説教要旨

            出エジプト20:1-3 ローマ1:15-17

    モーセの十戒は、「わが顔の前になにものをも神とすべからず」、「偶像を刻むべからず、拝むべからず」、「安息日を聖とすべし」、「殺すなかれ」、「姦淫するなかれ」、「盗むなかれ」等々で、それは出エジプト20章と申命記5章にあります。
  富める青年はこれは皆守っていますと言いました。また私たちも仏教にも似たような戒めがあるのではないかと言います。しかし、「あなたはわたしのほか、なにものをも神としてはならない」は、仏教にはないでしょう。それよりも、この戒めについてもっと大切なことがあります。   

  戒めが始まる前を見てください。  
「わたしはあなたの神、主であって、わあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」
と始まっていることです。つまり十戒とは、これをしてはいけない、これをしなさいという律法の前に、解放の事実があることです。
「わたしはあなたの神、主であって、わあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」


  それはあのエジプトでは、王が神で、あなたがたは、その奴隷であった。しかし、今、あなたがたを奴隷とする(人間的偶像の)王様の権力から解放された。あなたがたは自由になった、あなたがた一人一人の人格は認められ、あなたがたの名は貴ばれた。それゆえ、もうエジプトにいた時のように、人を殺してはいけない、年とった父母を、姥捨山に捨てるのではないと言う意味です。このように戒めには解放が先にあるのです。  

  私たちはすぐ「教え」や「命令」、「勧告」を先にしがちです。解放されない人間は真に勧告できないし、ましてや命令、教えはできないのです。新約聖書のローマ人への手紙を見てください。  
「わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも福音を宣べ伝えることなのである」。「わたしは福音を恥じとしない。それはユダヤ人を初めギリシア人にも、すべて信じる者に救いを得させる神の力である」
たとえば「姦淫するなかれ」は、異性を情欲をいだいて見るという、心の姦淫まで言ったら、ああでもないこうでもない。私にはとてもできないということになります。そこでは議論と反省と勧告と命令と教えばかりで時間を過ごすでしょう。
   今、聖書が言うことはそうではないのです。福音が先です、律法は後です。この後先を間違えたら、キリスト教は倫理道徳の切れ端になるでしょう。パウロは、福音は「神の力」だと言っています。しかも、「すべて信じる者に救いを得させる神の力」です。そこで問われているのは、「あなたはできますか」ではありません。福音は力です。そのことを「信じていますか」です。命令の前に、解放があることを、あなたは自由になったことを忘れないようにしましょう。  

  しかも「すべて信じる者に」です。「すべて行う者に」ではありません。問われているのは、信仰であって、行いではありません。ルターもパウロも、戒めを実行しているうちに、そういう戒律的な倫理は意味がなくなりました。  
  では新しい福音からでてくる倫理は何でしょう。それは「愛」です。愛するとは、「大切にする」こと。一人一人を大切にすること、妻を愛するとは妻を大切にすること、隣人を愛するとは隣人を大切にすること。さらに物にまで、動物にまで、一つ一つに名があるように、大切にすることであります。自分が自由にされたように、相手を自由にしてあげることです。  
「律法によって義とされようとする、あなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちてしまっている。私たちは、御霊の助けにより、信仰によって義される望みをいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」
  (ガラテヤ5:4-6)


  そしてその愛という実りは、感謝という蛇口から出てくる水にほかなりません。

  そうでないと、私たちは報いを求めるようになります。報いを要求したら、それは善行ではありません。私たちは、誰かに善い行いをします。するとすぐそれに対してお礼を要求します。それは精神的、物質的お礼である場合もあります。
  その時、問題は、マルチン・ルターが宗教改革で反対した、功績(メリット)という考えです。そのメリットという考えが、免罪符にまで発展しました。教会が大きな聖堂を必要とする、そのために献金することは、神に喜ばれる良い行為です。しかし、それは人間の功績(メリット)にはなりません。なぜなら、人間は、神の恵みに応えて善い行いをするので、それは感謝からです。私たち日本人の間には、義理という一種の功績の考えがあります。
  律法から始めてはなりません。福音からです。福音は、すべて信じる者に救いを得させる神の力だからです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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