11月15日(日)「しかり、アーメン」説教要旨

            Ⅱコリント1:17-22

   「アーメン」とは、ヘブル語で、「まことに」、「そのとおり」の意味です。祈りのあとでは、「アーメン」は、「そのとおりになるように」という願いがこめられていますが、また「アーメン」は、「そのとおり」ですから、「しかり、イエース」の意味があります。
  幼児の成長を見ると、ふつうに自然に育った子なら、まず「はい」イエースのほうを先に覚えます。かなりたってから、「違う、ノー」という言葉を覚えます。人間は、イエースが先でノーが後であることは確かです。肯定が先で、否定は後です。
  たとえば初めての人と会うと、相手が、ぶどうを作っている農家だとすると、それに合わせて、ぶどうの話をします。つまり「イエース」を求めているのです。人間の根底には、「しかり、アーメン」が先にあるのです。否定語は、後からできたのです。

  今日の聖句でパウロは
「私たちが宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは『しかり』となると同時に、『否』となったのではなく、そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現したのである。なぜなら、神の約束はことごとく、キリストにおいて『しかり』となったからである。だから私たちは、イエス・キリストによって『アーメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである」
と言っています。それどころか、ヨハネ黙示録には、イエスのことを
「アーメンたる者、忠実なまことの証人、神に造られた者の根源である方が、次のように言われる」
とキリストご自身を、「アーメンたる者」と呼んでいるのです。それはイエスは、「真実な方」という意味もありますが、もっと深い意味があるように思います。  

  それはヘーゲルという人が、キリストを神と人の和解者と考え、それは「肯定(イエース)」に対して「否(ノー)」をたて、その両者を総合する者が和解者であるとしました。これは彼の弁証法の基礎にあるものです。  
  もっと分かりやすく言いましょう。「しかり」がイエスにおいて実現したとは、イエスが私たちの「ノー」を引き受け、十字架において、新しい「イエース」に変えてくださることです。自分を否定する者のために、十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてやってください」と祈られたのは、その証拠です。またイエスが「あなたの敵を愛し、あなたを責める者のために祈れ」と言ったのも、イエスにおいて「しかり」が実現し、キリストを「アーメンたる者」呼ぶのもその意味です。  

  あるキリスト者でない学者が、イエスの十字架を解説して、もし自分を否定するものを、受け入れるとするなら、だれもその愛を否定することはできないと言いました。それがクリスチャンの学者でないだけに説得力がありました。  
  そうです。否定する私を肯定する、そのような大きな愛があるでしょうか。放蕩息子のたとえ、すべてがイエースです。父は、息子の財産の要求も、帰って来てからも、兄息子に対する態度にしても、そうです。それではみそくそいっしょにならないか。そうではありません。和解からすべてが、始まるのです。敵対からは何も始まりません。

  軍事力でテロがなくならい、民生を厚くし、対話を深めることによって、テロはなくなるのです。和解の福音です。
  今日の聖書の前後を見ると、パウロは、自分のコリント行きがだめになったことを記しています。つまり予定変更です。あるいは、人生における失敗を取り上げてもよいです。予定変更も人生における失敗も、私たちにとって「ノー」です。
  しかし、それさえも、イエスにおいて、「しかり、アーメン」となるのです。それがイエス・キリストは和解者であるということの本当の意味なのです。あなたの人生の「ノー」の中に入り込んで、それを「イエース」に変える力、現実の力、それはイエス・キリストの十字架であります。十字架は否定かも知れません。しかし、イエスは復活します。それはこの大否定は、大肯定になったことを意味しないでしょうか。  

  初めのことを思い出してください。私たちは子供の時、自然の姿においては、肯定を先に学びます。否定はその後です。 肯定こそが、人生の最初にして最後のものです。しかし、神のもとにあるのは、単なる肯定ではありません。否定を経た、最終局の大肯定にほかなりません。  
  使徒信条をご覧ください。「天地創造」で始まり、イエス・キリストの誕生、十字架の苦しみを経て、さらに「よみにまで下り」ます。聖徒の交わり、教会となり罪のゆるしがあり、からだの復活、永遠の生命に至ります。これは私の生涯ではないでしょうか。イエス・キリストの和解者としての、否定をこえた大肯定は、これらすべての過程を経たものです。そこに私の生涯もあるのです。あなたの生涯は、否定を経て、数々の「ノー」の坂を上って、ついにイエス・キリストの大きなふところに入るのです。  
  「子よ、汝の罪はゆるされた。それは私が十字架において負った」。これがイエス・キリストの大肯定です。

  私はこの神の大肯定をカウンセリングで学びました。時々、おかしなことを言う人に出会います。その時も、決して解説したり、説諭したりしてはいけません。それをそのまま受け入れるのです。そして聞き手、大肯定に徹するのです。それが真理だからです。「しかりは、イエス・キリストによって、なったのです」。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.