11月8日(日)「 ものには両面がある 」説教要旨

            ヨブ33:12-14 ローマ9:25-26

   ふつう物には両面があります。机でも、いや紙でも、必ず両面があります。表があれば裏もあります。精神的なことでも、よく「このことには裏がある」などと言います。
  しかし、そういう場合は、たいがい何か後ろめたい悪いことを連想します。しかし、信仰や聖書ではどうでしょう。私たちは、まず今日のヨブ記を見てみましょう。
「神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ」(ヨブ33:14)
とあります。

  この言葉は、信仰生活にとって、驚くべき言葉です。確かに神がさばこうとしている時、そこには恵みがあります。
「神はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるのである」(ヘブル12:6)
とあります。さばきは神の愛の裏面であります。また
「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは、人よりも強い」(Ⅰコリント1:25)
「罪の増すところ、恵みもいや増す」(ローマ5:20)
ともあります。さらに
「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはしないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるよう、のがれる道をも備えてくださるのである」(Ⅰコリント10:13)
とも言われています。  

   このことから考えて、神の両面、信仰の両面は、実に救いの事実であります。それは神の真実・神の愛の一面でもあります。それを知る時、私たちは現実の生活の中で、希望をもつことができます。  
  中国の文化大革命の時、紅衛兵の李という女の子が、別の紅衛兵に犯され気が狂いました。栴おばあさんは、伝道師の資格のある人で、そこに伝道に来ていました。おばあさんは、寝ずに李女のために祈り、看病し食事の世話をしました。李女はついによくなりまして、栴さんの伝道にお供して行きました。文化大革命の迫害の嵐の中で、福音は勝利しています。こうして絶望の中で希望をもつことができるのは、この神の真実の両面を知っているからではないでしょうか。  

   ビリー・グラハムが、暴力団に会った時、彼らは、「神が愛なら、どうして俺たちのようなやくざを作ったのか」と聞きました。グラハムは、セーターの裏側を見せました。それは何か分からないくちゃくちゃです。しかし、表側は、美しい模様でした。そのように神は、  
「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」(ローマ9:25-26)
とあるように、神は、その表側(愛)を示します。  

   そこには、「わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶ」神がおられるのです。その神は、一つの方法では見えない神、見えなかった神にほかなりません。それがもう一つの方法で語る神を見るには、その神の呼び声を聞き取る信仰がなくてはなりません。私たちは、ふだん、神の一つの方法は知っています。この一つの方法で生きています。私たちの信仰も、この一つの方法に目をつける信仰でしかありません。けれども、神は二つの方法をもっているという、そのセーターの裏側と表側を見る信仰があるでしょうか。  

   私たちは、考えて見ると、その日常生活の中でいつも、一本調子です。それは、信仰ではありません。一本調子は、仕事の論理です。仕事をする人は、一本調子でないと強力にことを運べません。しかし、皆さん、信仰においては、一本調子ではなく二つ方法があることを学びました。  
  そうとすると、ひるがえって仕事の世界に帰って、考えて見ると、そこもまた神の世界ですから、神様はもう一つの方法を用意しているのではないでしょうか。よく見てください。そして神とは離れていると見える仕事の世界で、その世俗の世界で、やはり神は二つ方法を用意しています。「わたしの足がすべると思った時、主よ、あなたのいつくしみはわたしを支えられました」(詩編94:18)。「汝立ち返りて静にせば救いを得、穏やかにしてより頼むなら力を得べし」(イザヤ30:15)。第一の方法は、世俗的方法です。だれでも見つかるはずです。しかし、そこにもう一つの方法を見つけるのは、この神への信仰がなくてはなりません。  

   なぜなら、この第二の方法は隠れているからです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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