11月1日(日)「永遠の生命を信ず」説教要旨

            ヨハネ17:1-5

   使徒信条の最後は「われは永遠の生命を信ず」で終わります。そして初めは「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。創造とは、「無」から造ることです。
  進化論の盲点は、進化の初めは何か、単細胞動物か、それとも植物か、鉱物か、そしてそもそもの初めは何かが分かりません。天体のような鉱物からどうして生命あるものができたのか、いまだに説明つきません。それは無からしか考えられません。 最終的には、全能の神が無から世界を造られたのです。生命の始まりも、無からの創造です。

   したがって、私たちは、永遠の生命という時、霊魂の不滅を考えません。使徒信条で、「永遠の生命」の直前は、「からだの復活」です。霊魂不滅には、「からだ」と「名」がありません。創価学会では、「人間は死んだら植物のようになる」と教えているようです。しかし、植物のようになることで、救いがあるでしょうか。よく「死んだお父ちゃんと天国で会える」というのは、通俗的な終末論ですが、そこには人格と名があります。 創造は無からですが、人間は神の似姿に愛のかたちに造られたのです。 
  創世記に、動物を呼んでアダムに名をつけさせることが出てきます(創世記2:19)。それは、ただ「犬」とか、「猫」という種族名を与えたのでしょうか。そうではありません。「自分にあう助け手は見つからなかった」とあります。そしてエバが与えられます。個人名を与えたのです。もし種族名なら、どうして対話の愛が成立するでしょう。したがって創造は無からですが、人間は神の似姿に造られ、愛の関係を結ぶことができる、生きた人格として造られました。とすれば、人間が死んで無に帰した時、神は、人格を新しく創造できないでしょうか。私が死ことがこわくなくなったのは、この真理を学んだからです。  

   ですから、「永遠の生命」という時、それは無からの創造であると共に、「からだの復活」です。そこには、はっきりと「からだ」と「名」があります。「誰々さん」とよぶことができます。「御名をあがめさせたまえ」とは、創造する神に「名」がある、そしてその方は、私たちの名を呼ぶ、そして私たち相互、互いに「名」をもって呼び合うことができるのです。  
  カウンセリングとは、本当は、その人の名を見いだすことにほかなりません。こうして故人の記念の礼拝をするのも、私たちのもとから、みもとに召された兄弟姉妹の「名」を覚えるためです。  

   ヨハネ福音書では、
「永遠の生命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、またあなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」
とあります。イエス・キリストを知るとは、
「インマヌエル神われらと共に」
を知ることです。  
  イエス・キリストの名は、常にいつまでも、私たちと共にいますのです。これがクリスマスの訪れです。永遠の生命とイエス・キリストを知る、「インマヌエル神われらと共に」は同じことです。そうとすれば、召天者記念礼拝とクリスマス礼拝とは重なるのです。召天者を覚えるとは、彼らが、イエス・キリストの名のもとに覚えられていることを感謝し記念する日です。   

   キルケゴールは、『瞬間』という本の中で、こう書いています、   
「人はただ一度しか生きません。死が到来した時、あなたの人生が、十分によいものであったなら、すなわち正しく永遠と結ばれるよきものであったなら、神は永遠にほむべきかな。   
  しかし、そうでないのならば、それは永遠にいやされないでしょう。人は、ただ一度しか生きないのです。   
  ・・・そしてあなたは今この一度だけのものを生き、時間の中でのその広がりは刻々消えてゆく時とともに、消えてゆくにもかかわらず、愛なる神は天にいまし、大きな愛をもってあなたを愛してくださるのです。   
  たしかに、神はあなたを愛しておられます。それゆえ神の喜びたもうことは、神が永遠のためにあなたに対して欲していることを、あなたが欲することであり、あなたが苦しもうとすることです。このことは、あなたが神を愛しようと決意することにほかなりません」。 主は「あなたがこの世から選び出して、私にお与えになった人びとに、私は、あなたの御名を現しました」(6節)
と言われます。  

   私たちは、このキリストのとりなしの祈りに支えられています。キルケゴールの言う永遠に目覚めるには、キリストを知らなければなりません。  
  あなたは自分が失望しない人間、長い間つきあってもがっかりしない人に出会ったことがありますか。滅多にないでしょう。いや全然ないかも知れません。私たちは、神の栄光を輝かす、そのためには、イエス・キリストのこのとりなしが必要です。    

   皆さん、どうか、そのために日々の人間の力や行為を見ないようにしましょう。教会の盛んや会堂の光りを見てはいけません。それは、神の栄光の光りではありません。「『やみから光りが照りでるように』と言われた神は、キリストの御顔に輝く神の栄光の知識をあきらかにするために、私たちの心を照らしてくださったのです」(Ⅰコリント4:6)。  
  やみは、驚くほどの力を持っています。それは私たちも対抗しえないほどです。しかし、嵐であらゆる光りが消えたとしても、この明かりは、きえることがありません。皆さん、自分を見るな、永遠の大祭司を見なさい。今、必死で、私たちのために最後の祈りをなさっている、この大祭司キリストを見なさい。イエス・キリストの名こそが、今私たちが死んだ人たちを覚える基礎です。また私たち相互が名を覚えあう基であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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