10月11日(日)「罪を悔い改める」説教要旨

   詩編57:2-6 ルカ5:27-32

   私たちは、「罪を悔い改める」と言うと、何か悪いことをして、後悔し、それを謝り改めると言ったことを連想しないでしょうか。確かにそれも「悔い改め」には違いありません。しかし、それだけなら、どこに信仰やキリストがいるのでしょうか。そういった「悔い改め」は、道徳的でなものです。聖書の「罪の悔い改め」は、それとは全く違います。

   「悔い改め」とは、自分中心を改め、神中心になること、180度転換することです。地上の「欲」や「我(が)」に執着していた者が、それから離れて神に目が開かれることです。したがって、聖書の「悔い改め」は、この世の善人もしなくてはならないのです。善人も自分中心の善なら、誇りや自分の善から人を見下げることもあるでしょう。
   パウロは、「律法の義については落ち度のない者」と言っていましたが、ダマスコ途上でキリストに出会って、その自己の善に宿る罪、「傲慢、独りよがり、いばり、自己義認」を認め、真の神に立ち返りました。道徳的善人も、神の前では罪人なのです。

   今日のルカ福音書には、イエスが取税人レビの家で、喜んで会食をしていたら、パリサイ人は、「どうしてあなたがたは、取税人・罪人などと食事をするのか」と疑問を呈しました。イエスの答えは、「健康な人には、医者はいらない。私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」でした。

   バルトの「悔い改め」という説教には、次のようにあります。「私のもとに来なさいとイエスは、私たちを招かれる。彼は実在するものを、私たちに告げようとしている。真理を、私たちに告げようとしている。そして、これを聞いて受け入れる者は、悔い改めをする。
   悔い改めとは、私たちが常に見落としている最も近くにあるものへの立ち返り、私たちにとってあまりに高く、あまりに困難な最も単純なものへの立ち返るである。神は、私たちの最も近くにいますものであり、神は私たちの中心である」。すると悔い改めとは、とんでもない大きなことをするのでなく、最も身近かなものに気づくことなのです。

   放蕩息子のたとえを思い出してください。息子は確かに遠い国に行きました。そして放蕩に身をもちくずし、スッテンテンになりました。すべてを失った時、彼は、最も身近かなものを見いだしました。それは自分の出て来たところ、父親のもとでした。
   皆さん、「悔い改め」とは、自分が出て来たところに帰ることです。真の父のもとへと帰ることです。一番やさしい、簡単なこと、しかし、一番難しい困難なことであるかも知れません。しかし、まだ遠くにいるうちに、父は出て来て、抱いて接吻しました。信仰とは、この父の業を信じて、最も身近かなところに帰ろうとすることにほかなりません。

   私たちは心配し思い煩います。その時、私たちは「悔い改めとは、私たちが常に見落としている最も近くにあるものへの立ち返りである」ことを考えて見ませんか。「思い煩い」とは、最も近くにいます神を忘れ、自分や自己の力で解決しようとする傲慢にほかなりません。このことを忘れないようにしましょう。私たちが遠いと思っているよりも、はるかに神は、私たちに近いのです。  

   詩編57編も言っています。
「神よ、私を憐れんでください、私を憐れんでください。私の魂はななたにより頼みます。滅びの嵐の過ぎ去るまでは、あなたの翼の陰を私の避けどころとします。私はいと高き神に呼ばわります。私のためにすべての事をなしとげられる神に、呼ばわります。神は、そのいつくしみとまこととを送られるのです」。また「わたしが好むのは、憐れみであって、いけにえではない」
   (マタイ9:13、ホセア6:6)
とも言われています。そのようにキリストは、

  私たちを招いておられます。しかも、「すべて労する者、重荷を負う者はわれに来れ」と言われます。「すべて」です、あなたも例外ではなく、招かれているのです。「悔い改める」とは、このイエスの私自身に対する招きに応ずることです。イエスのもとに行くことです。私たちは、自分のもっている理想に従えと言われません。何か理想を描いて、教会に来た人はイエス・キリストから離れます。

  私たちは、自分のもっている既成観念を打ち破って、ただイエス・キリストを見つめなくてはなりません。イエスは理想や、欠点のない教会に従えとは言われません。「この私に、罪人、取税人といっしょにいる私に従いなさい」と言っているのです。そこには何もすばらしいものではありません。世界一流の学者に従うのではありません。「兄弟よ、罪の前にたじろいてはなりません。罪のままの人間を愛しなされ。これこそ神の愛に似たものです」とドストエフスキーは言いました。そのことです。

   イエス・キリストは、今日も、私のところに来てくださいます。「私が好むのは憐れみであって、いけにえではない」とおっしゃって。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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