9月20日(日)「 安息日の意味  」説教要旨

     創世記2:1-3 マルコ2:23-27

  創世記の初めを読むと、この安息日(聖なる日)はいつか、この日は、神が人間を造った日と思うかも知れません(第6日)。あるいは太陽を造った日(第4日)だと思うかも知れません。
  しかし、そうではありません。神が聖別されたきよい日は、実に、神が何もしなかった第7日なのです。何もしない日、それが一番清い日だということを、私たちは忘れてはなりません。
  私たちは現代、あまりにも「なす」こと「やる」ことに捕らわれ過ぎていないでしょうか。私たちは、自分たち人間の業がいかに偉大かと思い、静かに待つことの貴さを忘れています。時代は、いよいよ忙しくなり、「なさざる1日」の貴さを忘れています。それは一日で言えば、「夜」、1週で言えば「聖日」、私たちの日々の行動で言えば、「祈り」の時ではないでしょうか。

  世の中忙しくなると、会社でも組合でも教会でも、いろいろ部局、委員会ができて、仕事をするために委員会があるのでなく、逆に委員会があるから仕事をすることになります。これは「人間の焦り」です。
  いかに私たち人間の業が小さいかを考えましょう。たとえば、農業で、芽が出てから実るまで、天候から風、雨、あらゆるものが、人間がこしらえたものではありません。人間の労働は、あの一枚の花びらする作ることはできません。
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしく、主が町を守るのでなければ、守る者の覚めているのは、むなしいことであります」
  (詩編127:1)


  しかし、この日神は本当に何もしなかったのでしょうか。そうではありません。神は、何かを造る業はしません。「神はこの日を祝福して、これを聖別された」とあります。
  この日、神は、何かを作ることはしませんでしたが、造られたものを「祝福」しました。「祝福」とは、分かりやすく言うと、芸術家が作品を作るまで、汗をかき、労力を注ぎ、ます。ついに完成しました。芸術家は、作品が完成した時、寝転んで休養するのでなく、その作品を展覧会場に運んで、皆に見てもらうのではないでしょうか。見た人は「すばらしい」と鑑賞します。この「すばらしい」が、「祝福」なのです。 

  「祝福」という言葉は、ふつう日常生活では、あまり使いません。日常では「幸福」という言葉は使います。しかし、同じ「福」があっても、祝福と幸福では、全く違います。幸福は自分にも使えます。「私は幸福だ」と、
  しかし、祝福という言葉は、自分には使えない言葉です。「私は私を祝福する」とは言えません。他人に限られます。結婚式などで、「新郎新婦を祝福する」と言います。
  「祝福する」とは、他者の幸せを祈る良い言葉です。礼拝の最後も祝福で終わります。幸福には利害打算が付いて回ることもあります。しかし、祝福には、決して利害打算はありません。日曜日は、この祝福の日なのです。絵を見て「すばらしい」というように、互いに「あなたはすばらしい」という日なのです。
  そこで批判や、さばきはありません。神が創造世界を「良し」と見たように、「良し」があります。各人は、もはや職業人であることをやめ、そこで成績も、成果も問われず。ただ人間として神の前に立ち、互いに祝福しあうのです。

  そして画家や彫刻家の労苦は、この日のためにあったように、私たちの生活も、この安息日のためにあるのです。この祝福を失った労働は、「働けど働けど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」と言うように、そこには虚無感があります。
  仕事を何のためにするのか、祝福のためではありませんか。神の祝福です。それが安息日の意味です。ここに完成という言葉もあります。すべてが完成しているなら、私のなすべきことは、何が残っているだろうか。「ひざまづいて、救い主とその救いを受け入れ、いつまでも主を賛美する以外に残っていない」。その創造者を仰ぐことです。
  創造者を仰ぐことで、あなたは駄目になることはありません。この神の休みは、神の催眠状態ではありません。神は、この日、神の被造物である、あなたを「良しとして祝福されます」。私たちは、その仕事を放棄して、創造者を文字通り創造者として仰ぐのです。
  その時、私たちの罪による一切の虚無主義は破られました。すべてに意味が出てきます。この日は、イエス・キリストの復活の日です、十字架により打ちのめされた弟子たちは、虚無主義に陥っていたかも知れません。しかし、主は、その虚無主義の墓をからにして、よみがえられたのです。「私の荷は軽い」と主は言われます。それでこの日を、新しい初代の教会は、「主の日」と呼びました。「主イエス・キリストの日」です。

  「聖別」とは、この日を、特別な日としてとっておくのです。そこから日、月、火、水と続く労働の日が祝福のもとにおかれるのです。この日、何もしないけれども、一番大切なことをするのです。
  このごろ、世俗化して、暦でも、カレンダーでも、土日は、週末と言われます。しかし、日曜が週末とはおかしいです。日が一番先なはずです。聖書では「週の最初の日」とも呼ばれました。マリアたちは、
「週の初めの日、お墓に行った」(マルコ16:2)
これはどの福音書にもあります。まず神を仰いでから、事を始めるのです。そこに祝福があるのです。神の祝福であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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