9月6日(日)「 親と子・子と親 」説教要旨

    創世記2:24 ⅡテモテⅠ:5

  「親の心、子知らず」ということわざがあります。確かに親が子供を思うほど、子供は親を思っていないように思います。もちろん例外はあります。大人になっても親のことを本当に思っている子を見たことがあります。
  しかし、一般的には、子供の親に対する愛は、親の子供に対する愛を十とすると、六-七ぐらいではないでしょうか。「親の心、子知らず」と言われるゆえんであり、また「子をもって知る親の恩」ということも、一般的にはあてはまるのではないでしょうか。

  しかし、子供の方を中心に見ると、全く相反することわざがあります。「子は三界の首かせ」という驚くべき言葉があると共に、「子はかすがい」というありがたい言葉もあります。子供が三人も五人もできて、その育てる最中の大変さは、あるいは「子は三界の首かせ」ということが真実である場合もあるでしょう。
  しかし、現代は違います、もちろん子供を殺す親もまれにありますが、大体は少子化で、子供は大切に育てられます。むしろ今では、「子はかすがい(夫婦がうまく行かなくても、子供が、その間をとりもつ意味)」という方が真実味を帯びています。互いに喧嘩した夫婦が、子供がかすがいになって、仲良くさせてくれたことは、よくあるでしょう。 

  そもそも「親」という字は、「木のそばで立って、見ている」ことです。それが親の理想です。事細かくやかましく指示し、介入するのは、邪道です。それは聖書によると、
「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、二人の者一体となるのである」(創世記2:24)
です。「父母を離れる」、つまり子供は離れる運命にある。しかし、「木のそばで立って、見ている」にしても、「父と母を離れて」にしても、視点が人間中心と全く違うのです。神様が入ってくるのです。

  なぜ親は「木のそばで立って、見ている」のがよいのか、それは親だけが子供を育てるのでなく、そこに神様が入ってくるのです。つまり子供の育児、教育は、神に任せる面がなくてはなりません。親がでしゃばるのは、子供は迷惑だし、それは神を忘れているのです。
  よく言われるように、教育(education)とは、「引き出す(educo)」という言葉から来たものです。子供の中にあるものを引き出し、子供が神様からいただいているものを見つけだすこと、それが真の教育であり、親のつとめです。

  次に、「父母を離れて」も同じです。結婚とは、親を離れるのです。親離れしない子供、子離れしない親は、世間にいくらもあります。本来一人一人が神の前に立つのであります。愛には、「引き寄せる」面と共に、「離す」面がなくてはなりません。つまり「距離をおく」のです。愛というと、べたべたした情緒的な面のみに捕らわれて、愛の引き離す客観的面を忘れてはなりません。 

  そこで聖書は、「受け入れる」というすばらしい言葉を用意しています。
「だれでもこのようなひとりの幼子をわたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18:5)

  「受け入れる」ということは、何でもかんでも言うとおりにする意味ではありません。情動を受け入れる「あなたの気持はよく分かる」の意味です。
「空の鳥が空気を必要とするように、お魚が水を必要とするように、私たち人間は互いに受け入れられることを必要としている」
  「キリストも私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも、互いに受け入れあって神の栄光を表しなさい」(ローマ15:7)


  次ぎに、孫になると、大分変わってきます。それはまず自分は育てる責任がないから、客観的に見ることができます。つまり、「離す」面は大丈夫です。しかし、また「猫かわいがり」のようになる危険があります。ただ年とった者の知恵というのもあります。一歩退いて、その知恵を働かせることが大切です。
  主導権はあくまでも、親にあります。祖父母が出る幕があります。出る幕でないのに出ると、いやがられます。
「この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している」(Ⅱテモテ1:5)

  これが、、今日の聖書の言葉です。祖母ロイスと母ユニケさらに孫のテモテは、信仰でつながっているのです。その信仰が、言わず語らずに、伝承されます。そこで「宿った」という言葉を使っています。「宿る」とは、住居をもつことです。とすれば、それは聖霊の業ではないでしょうか。人間が伝承するのではありません。神がなさるのです。
  しかし、人間がいないのではありません。人間は、神の恵みを映し出す鏡のようなものでしょう。信仰は言葉で教えては駄目、信仰の後ろ姿が大切、うしろ姿はお化粧することができません。

  親と子は、もともと、神様が父と子で、この神の三位一体の関係に入るのです。では私たちの親子関係と似たものが、神さまの特性の中にあるのでしょうか。その反対です。私たちは神から造られたので、神の父と子、聖霊の関係に、私たちの親子関係が似ているのです。
  一言で言うと、私たち人間同士の愛は、たとい親子のきずなでも、それは人間の愛エロースです。それは私たちが何か求めるものを相手の中に捜すのです。しかし、神の愛アガペーは、自己を捨てて他者を愛するのです。確かに親の子に対する愛は、犠牲的なものがあります。しかし、そこにもかなりエゴイスティクなものが入っています。人間的愛は、金銭利害得失に弱いのです。愛しているはずの親子が、財産問題に、血に血をもって洗うような争いをしかねません。つまり人間的情愛は、一般的恵みで、それは罪に汚れていますから、特殊的恵み、イエス・キリストのアガペーの愛によって清められなくてはなりません。
「十字架の言葉は、滅びる者には愚かなれども、救われるわれらには神の力であります」
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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