8月30日(日)「神の満ちあふれ」説教要旨

   コロサイ2:9-10 ローマ8:35-39

  
「キリストにこそ、満ちみりているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである」
  (コロサイ2:9-10)

   「満ちあふれる神の徳(神性)」とは、第一に神の愛です。聖書には、「神は愛なり」とあります。その愛があふれ出るのです。ちょうど井戸の水があふれて、回りを潤すように、神の愛が満ちあふれて、私たちは、いやされ、潤され、生かされ、強められ、勇気を与えられるのです。
   愛を惜しんではなりません。ローソクの火を、惜しんでいたら、自分も燃え尽きるでしょう、しかし、隣りのローソクに分けてあげても、火はなくなりません。そのように、愛には満ちあふれがあるのです。
   愛はつまり伝播するのです。そして愛は人に上げても、なくなりません。それどころか与えれば与えるほど増えるのです。アルメニア人のクリスチャン兵士の愛の行為は、イラン人アリさんに伝播し、彼は改心し伝道者になり、日本にまで届き、多くの人びとを潤しました。

  次のローマ8:35の御言葉は、今日の聖書の適切な解説です。
「だれがキリストの愛から私たちを離れさせるのか。艱難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か、『私たちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』と書いてある通りである。しかし、私たちを愛してくださった方によって、私たちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」

  それは愛の剰余価値であります。愛は惜しんだら、しぼんで行きます。しかし、与えれば与えるほど、増えて行きます。私たちにいけないのは、悲観主義になることです。

  この間に祈祷会で、イザヤ2章を学びました。その時の話は次のごとくです。それは預言者イザヤが国々に「平和」の福音を説いているところです。「主は国々の争いをさばき、多くの民を戒められる」と。この神の主導権がなければ、私たちだけで「平和」のために、何かをすることはできないのです。神の力があって、そこで初めて、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」。

  まず私たちのすることは、軍備の縮小、全廃です。当時なら剣と槍ですが、現在なら、ミサイルや、核爆弾でしょう。そして農業の道具を作るのです。現在で言えば、食料の自給でしょう。このことは神さまにお任せすることはできません。それは私たち人間の責任です。
「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」

  しかし、現実は果たして、このような方向に向かって進んでいるでしょうか。私は「向かっている」と思います。たとえば、戦国時代、上杉と武田が川中島で戦っていました。現在新潟県と山梨県で戦うことなど考えられるでしょうか。昔、ドイツとフランスは二度の世界大戦で戦いました。その反省から、ヨーロッパ連合ができました。それがたというまく機能しなくても、一体だれが、現在、ドイツとフランスが戦争することなど考えられるでしょうか。
  このように人類は、平和の方向に向かっています。ブッシュの時代、アメリカは戦争しましたが、今、オバマ大統領は、核について反省し、核廃絶の方向で各国と話しあおうとしています。このことも、十年前には考えられなかったことです。これらのことは、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という、少なくともその方向をたどっています。

  今民主党の代表の鳩山氏は、アジア共同体構想をもっています。それはヨーロッパ連合のアジア判です。実現は難しいでしょうが、少なくともその方向に向かっていることは確かです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。いけないことは、こういうことは、「すべて楽観的で、世の中そう甘くない」といって、何でも悲観的に見ることです。
  私がドイツにいる頃、ミッテランとコールが話し合って、ヨーロッパ連合の基礎ができました。あの政治家の理想主義がなかったら、今日のヨーロッパ連合はなかったでしょう。「主の光の中を歩もう」とは、「闇を信じない」ことです。闇はあります。しかし、「光は暗きに照る、しかし、闇は光に勝たなかった」のです(ヨハネ1:5)
  「主の光の中を歩もう」ではありませんか。それと同じように、愛も悲観主義になってはいけません。悲観主義からは何も出てきません。愛はあふれ出るのです。「勝って余り」あるのです。愛の剰余価値というものがあるのです。

  この前の説教で、
「目に見える望みは、望みではない、私たちはすでに見ているところのものを、どうしてなお望むだろうか。私たちの望みは目に見えない望みである」
と申しました。その時、芸術写真をしている方が言いました。「そのことはよく分かります。芸術というのは、目に見えないものを真とするのです」と。私は答えました、「ある絵かきさんが、私に言いました。絵かきも専門家になると、目に見える部分では、ほとんど差がない。巨匠と言われる人は、目に見えない部分である。つまりその人の宗教とか、哲学とか、思想とか、その背後にあるものが決定する」と。すると、そこにあるのは恵みの剰余価値ではありませんか。「われ勝ち得てあまりあり」。その「あまり」、それは信仰そのものかも知れません。

  「勝ち得て余りある愛」、それは愛であるけれども、私たちの愛ではありません。私たちの愛ならすぐ変わり、少しの不幸、わずかの迫害、貧乏で変わります。
  しかし、ここで問題になっているのは、キリストの私たち対する愛です。この愛は十字架において示されました。
「私たちが現れたもう神のほかに、何も頼りえない場所で、神は私たちに対して、真の生ける神であります。そこに栄光の希望が、私たちに現れます」

  十字架のキリストは死んだキリストではなく、真の生けるキリストであります。しかも生きて力強く、王座にいますキリストなのです、単に力強いだけでなく、「勝ってあまり」があります。
  ただ勝つだけでは、勝利に酔う狂気でしかありません。お山の大将で、単なる負けん気ではなく、そこに勝利以上のものが輝きだすのです。そして神の愛のこの「あまり」が、大切であります。余りは、余裕です。その余りにこそ、神の本当の姿が潜んでいるのです。勝つだけなら、だれでも望みます。しかし、あなたが勝つのではありません。神が勝たれるのです。
  その「余り」こそ、神の栄光の輝きにほかなりません。しかし、勝って余りがあるのは、「私を愛してくださったお方のゆえ」であります。この愛からなにものも離れさせないのだから、この愛に気づく者にとって、すべては益に働くのです。この世界に、この神の愛以外の何ものも支配しないことを信じましょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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