8月16日(日)「幾 分 か 」説教要旨

   ローマ1:8-15

  「幾分か」とは、説教として何を言うのでしょう?この言葉は口語訳聖書で、四回出てきます。パウロの信仰を知る上で大切な言葉です。
「私はあなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力つけたいからである」
  (1:11)。
  「私はあなたがたの間でも、幾分かの実を得るために、あなたがたのところに行こうとした」
  (1:13)


  この二つは、いずれもローマの信徒との交わりについて語られた言葉です。パウロは、当時、最大の神学者で異邦人教会の指導者です。それほどの人が、今、辞を低くして、「私はあなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力つけたいからである」、「それはあなたがたの中にいて、あなたがたと私のお互いの信仰によって、共に励まし合うためにほかなりません」と言っているのです。
  パウロは、「私は君たちに、キリスト教の教理の大綱を教えてあげましょう」などと、大きなことを言わずに、「幾分」と言っています。この小さな言葉が、パウロの大きな信仰を表していないでしょうか。こんな小さな言葉に目を留める人は、ほとんどいないでしょう。しかし、それはパウロの信仰を知るうえで、大切な言葉にほかなりません。  

  Ⅰコリント13章でも、パウロは
「私たちの知るところは、一部分であり、預言するところも一部分にすぎない」(13:9)、
さらに
「私たちは今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(13:12)
と語っています。
  つまりパウロの信仰は、いつも終末、神の国を目指している途上にあるのです。ピリピ書で、
「私がすでに得たとか、完全になっているとか言うのではない。私はただ捕らえようとして追い求めているのだ。そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである」(3:12)
、だから「その達し得たところにしたがって進もう」とも言っています。信仰の人は、途上の人です。完成は天国においてあるのです。このことを神学的に難しく言えば「終末論的留保」です。つまり「幾分」は、パウロの信仰の謙遜を表しているだけでなく、その信仰、神学の本質を表しているのです。  

  さらにローマ書の終わりには、
「その途中あなたがたに会い、まず幾分でも私の願いがあなたがたによってみたされたら」
と書いています。これは希望についての、終末論的留保です。
  パウロは、完全に私の希望が満たされたらとは言いません。「幾分」です。何と、謙遜で控えめなことではないでしょうか。子供の教育でも、仕事でも同じです。これを信仰的アバウトと言います。つまり、神さまの働く余地を残しているのです。思い煩う人は、神様がしてくださる分を残していないのです。何でも自分でしょうとして、終末論的留保ということを知らないのです。皆さん、パウロの信仰的「幾分」、終末論的アバウトに学びましょう。この「幾分」は、完全主義、完璧、潔癖症の正反対です。信仰者は、完全である必要はありません。「幾分」でよいのです。  

  最後にもう一つ、
「あなたがたが教会に集まる時、お互いの間に分争があることを、私は耳にしており、そして幾分か、それを信じている」(Ⅰコリント11:18)
とあります。これはパウロの人生経験と信仰の深さに裏打ちされた、信仰的幾分だと思います。この信仰的幾分が、混乱から救うのです。
  私たちは、分争し相争うことがしばしばです。私たちは、そのうわさを聞く時、どうでしょうか。すぐ真に受けて、心配したり、怒ったり、悲しんだりしませんか。パウロは判断を下す時、慎重です。大体こうしたうわさ話は、人づてに聞くものです。自分の耳に入るまで、何人もの人が介在するかも知れません。そうすると初めの事柄よりも、輪をかけて大きくなったり、着色されて違ったものになっている場合があります。
  そこで、パウロの「幾分」が働きます。今日のような情報社会では、情報がまりにも多すぎて、私たちは何でも信じてしまいます。この場合にも、終末論的留保ということが、大切です。時を待つことが大事です。時が、事を明かにするでしょう。それまでは、「幾分信じる」終末論的留保が、信仰者として大切ではないでしょうか。

  パウロが、「霊の賜物の幾分」と言った時、
「それはあなたがたと私とのお互いの信仰によって、共に励まし合うためにほかならない」
と相互性が出て来ます。もしパウロが偉大で、パウロがすべてなら、どうしてこの相互性が出てくるでしょう。
  パウロがいかに偉大でも、その与えるものは、「幾分」だとするなら、ほかにも残っているのでないでしょうか。その分は、ローマの教会の人びとによって、補ってもらうことなのです。
  この「幾分」という終末論的留保は、さらに発展して、相互理解、相互協力に進みます。親がすべてをするなら、子供に何が残っているでしょうか。「幾分」だから、子供は成長するのです。  

  また私たちの願望のすべてがかなう訳ではないのです。しかし、「幾分」かなうなら、それは新しい前進の基地となるでしょう。「行く末遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を一足また一足、道をば示したまえ」であります。これこそが、終末へ、神の国へ向かう、私たちの幾分であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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