8月9日(日)「今ここ」説教要旨

   ルカ17:20-21 イザヤ55:6-7

  パリサイ人が来て、イエスに尋ねました、「神の国はいつ来るのですか」と。
  イエスは答えました、
「神の国は見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』、『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの中にあるのだ」
  (ルカ17:20-21)

  このイエスの答えは、ある人びとにとって、驚くべきものではないでしょうか。多くの人びとは、神の国はいつか、将来のある時点で来ると思っているからです。しかし、この「あなたがたのただ中に」は、決して「私たちの心の中に」ではありません。それでは神の国を精神化してしまいます。この「ただ中に」は、「神の国は、イエス・キリストを信じているそこに、イエス・キリストが実在するその時に、そのような信仰者のただ中に」の意味です。   

  ここでは「いつ、どこで」が問題になっています。私たちはふつう、何か出来事が起こると、「いつ、どこで」と問います。しかし、今、キリストは、このパリサイ人の「いつ、どこで」の問いには、直接答えませんでした。なぜなら、神の国は、この世の火事とか、地震とか、戦争というような地上的事柄でないからです。
  最近よくある竜巻なら、「いつ、どこで」が問題になるでしょう。しかし、神の国は、そうした竜巻と同じレベルで考える事柄でしょうか。イエスの答えは、「神の国は、そういう竜巻のように見える姿では来ません、『ごらんなさい、ここに、あるいはあそこに』とは言えないでしょう」。
  それは竜巻のようなものとは違います。この世の中の出来事、この時間内の事件とは、質的に違うからです。火事、地震、竜巻、それらはみな「見える事柄」です。神の国は、いわゆる目に見える出来事ではありません。それは、私に起こる事柄ですが、永遠の世界と接している事柄です。地震や火事は、決して永遠の世界とつながってはいません。  

  私は、よく終末とか神の国を、人間の「死」で説明します。神の国が、もし「永遠のいのち」ならば、死と非常に大きく関係あるでしょう。死ぬことは、永遠のいのちにつながるからです。
  それで死は、学校に行くとか買い物するとか、普通起こる、この世の出来事とは違います。それは神に出会い、永遠に接する出来事です。買い物や学校で学ぶことなら、「いつ、どこで」が問題になります。しかし、死は、「いつ、どこで」が分かりません。いつくるか、しかも、明日来るかも知れません。それは必ず来ます。それは「実にあなたがたのただ中にある」と言えませんか。

  しかし、死は、永遠の問題を問います。死んだ後どうなるのか。そもそも私が中学生の時、教会へ通い出したのは、死が恐ろしかったからです。そしてその解決、それは、一言で言うと、「今、ここ」です。筋ジストロフィーの中島君は死の直前言いました、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「生きている時も死ぬ時も、私が私自身のものではなく、私の信頼すべきイエス・キリストのものとなることです」、「先生、私はこのハイデルベルク信仰問答の言葉を今でもその通り信じています」。
  まさに死直面する時、彼にとってキリストの現臨は、生きた事実だったのです。「今ここ」に神の国はキリストと共にあったのです。

  私はドイツへ行く前、ある方に手紙を出し、「もうドイツに行くから会えないかも知れませんが、近ごろあらゆることから自由になって、宗教からすらも自由になって、ただイエスさまのみふところと、イエスさまの愛された地上とが一つになり、天上でお会いすることも、地上でお会いする事も同じになりました」と書きました。
  信仰が深められると、神の国が、「今ここ」になるのです。今、生きるいのちが、この瞬間の生が、神の国につながる一日一日になるのです。「行く末遠く見るを願わじ、主よ、一足また一足道をば示したまえ」(賛美歌288)。

  年とった人ばかりではありません。死が永遠につながる出来事であることは、また若い人にとっても、死は、「今ここ」の出来事です。なぜなら、若い人でも、明日死ぬかもしれないからです。
  「今ここ」の備えをすることは、歳や年齢に関係ありません。その時、信仰が新しく、新鮮になってくるのです。生き生きしてくるのです。そうでない時は、信仰は道徳か、あるいは御利益か気休めの一種になっているのです。
  私たちの信仰は、神の子イエス・キリストが、命を懸けた十字架の言葉です。滅びる者には愚かだけれども、救われる私たちには神の力です。その神の力である、イエス・キリストがいますところ、神の国もあるのです。

  イエスの最初の福音は、「悔い改めよ、神の国は近づいた」ではなかったでしょうか。若い人には遠くて、年寄りには近づいたのでしょうか。そうではありません。若い人にも、神の国は近いのです。それは「今ここ」なのです。明日悔い改めればよいのではありません。それは「今日という日のうちに」です。ヘブル人への手紙にあります。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『今日』といううちに、人びと互いに励まし合いなさい」
  (ヘブル3:13)
若いから明日、あさってがあるわけではありません。神の国に直面する時、それは今日です。  ではやがて来る未来の神の国とどう関係あるのでしょうか。それは「今ここ」は、神の国の始まりです。来るべき神の国は、その完成にほかなりません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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