8月2日(日)「不のつく字」説教要旨

   出エジプト4:10 マルコ9:23  

  「不」の字のついた言葉には、あまり良いものが,ありません。たとえば、「不可能」,「不信」、「不真面目」、それは英語のNotです。
  今日の聖書で、てんかんの子の父親が「もしできますなら、お助けください」と言った時、イエスは「できればと言うか。信じる者には何でもできる」と力強く答えました。その場合,不信と不可能がつながります。また反対に信仰と可能がつながります。つまり、イエスは、「信仰するとは、すべてを可能にすることだ」と言われたのです。  

  すると私たちは、「本当だろうか」といぶかりませんか。「私が信じていれば、何でもできるのだろうか」と。しかし、そういぶかる時、私たちは考えているのです。頭で思っているので、信じてはいません。イエスの意味している信仰とは,一点の曇りもない絶対的信仰です。生きるか死ぬか、どうにもならない時、私たちは必死で、一晩中でも祈りませんか。その時、神のみ心と私とは一つになったのです。息子が会社のことで、失職しそうになった時、一晩中必死に祈った母親のことを思い出します。  
  この絶対的信仰は、不可能を可能にします。イエスは、神を思う信仰が、可能にするとは申しません。私たちは、ここで信仰の内容を完全に変えなくてはならないのではないでしょうか。  

  Ⅱコリント1:17-18.に、パウロがコリント行きの計画が延期になった時、「この計画を立てたのは、軽率なことであったのだろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、私の『然り然り』が同時に、『否、否』であったのだろうか。…あなた方に宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは,『然り』となると同時に『否』となったのではない、そうではなく、『然り』がイエスにおいて実現されたのである」と言っています。  

  つまりコリント行きの計画が、うまくゆかず、変更を余儀なくされた時、私たちは、終末を待つ、留保の中で生きているのです。私たちは、信じている時、途上の人で、完全ではありません。
  しかし、完全に向かって進んでいることは確かです。その時、信じる人は、「まだない」という否定を「やがてなる」という肯定に変えます。私たちは生活の中で、「まだこれしかできない」と言います。しかし、信仰の人は、「やがてできる。すでにこれだけできたのだから」と言います。不信の「ない」は、信仰の「ある」に変えられます。それは信仰の人の自己確信や傲慢からでしょうか。違います。パウロは言います。「然りがイエスにおいて実現したのである」と。ノーをイエースに変える力は神から来ます。  

  私たちは不完全さのゆえに、予定し公告したことを、余儀なく変更しなくてはならないことがあります。しかし、それは二枚舌とか嘘とは違います。
  パウロは自分の訪問を「恵み」と言っています。神の御手なしに何事もなしえないからです。私たちは計画する時、いつも変更を恐れています。しかし、人生には「変数と常数」とがあります。変数は人間の計画です。しかし、その背後に常数があります。常数は神です。  

  思わぬ病気になって、計画を変更しなくてはならない時、それは「否」です、悪がこの世にはびこって,善が沈黙する時、それは「否」です。私たちの生活には状況があります。どんなに正しいことでも、ある状況ではうまくゆかないし、それを押してやればかえってもっと悪い事態がやってきます。  
  けれどもこのような状況の中にも、神の「然り」は支配しています。「スイスは人間の混乱と神の摂理によって今日ある」と言われています。その歴史は多くの人にとって混乱としか映りませんでした。けれども、よく見てごらんなさい、その人間の混乱の中にも、一筋の神の摂理が貫かれています。それが神の然りです。信仰とは、この神の然りを信じることです。  

  イスラエルに預言者が輩出した時代は,イスラエルの滅亡の寸前の時でした。歴史の中で混乱としか見えない時、その時も、もう一つの線があるのです。神の然りが働くのです。
「神は真実です。私の言葉は、あなた方に対して、然りと同時に否となるようなものではありません。そうではなく、然りがイエス・キリストによって実現したのです」
 
  パウロが状況に合わせて、コリント行きを伸ばした、あの否も、もっと大きなキリストの然りに包まれているのです。このことを知れば、私たちはあわてることはありません。  

  今日、私たちは大きな時代の変わり目に来ています。多くの人は何をしてよいか分からないでいます。教会さえ、失望したりあわてたりすることもあります。「否、否」という声が勝ちます。しかし、このような時こそ、神の然りが、何にも増して働くのです。「ミネルバのフクロウは夜飛ぶ」と言われます。信じる時、時代の変化も、神の然りに変えられるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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