7月26日(日)「健康と信仰」説教要旨

   ヨハネ5:2-9 列王下20:1-6  

   信仰と病気あるいは健康は、大変関係があります。しかし、この問題について考えるにあたって、絶対にいけないことが、二つあります。1.「心は教会の問題、身体は病院・医者の問題」ときれいに分けることです。2.信仰で病気が治る、医者に行く必要はないという、

  この二つの両極端はよくありません。一つは合理主義で、もう一つは熱狂主義です。信仰は、合理主義でもなく、理性を無視する熱狂主義でもありません。新興宗教にこって、御題目をとなえれば、病気が治ると教えられ、乳がんの手術が手遅れになって、死に至った人がいます。しかし、にもかかわらず心と体は関係があります。信仰と病気も関係があります。キリストは病を治しています。聖霊のにはいやしの賜物があります。

   中国人は「病気」と呼びました。気を病む。現代医学でも次第にそのことに気づきストレスが、病気の原因となる場合があることが分かりました。フランクルは、心の明るい時の血清は、憂鬱な時の血清よりも免疫力があると言っています。精神の体への影響は計り知れないものがあります。  

   信仰者の健康に対する原則は第一に、神の創造された自然の摂理に従うことです。神は自然的な治癒力を与えました。したがって、本来何もしなくても、自然に病気が治るようにできています。まずそのことを信じましょう。
  しかし、薬や医学的治療は、その神の自然治癒力を高める補助的な役割をはたします。手術前に「大丈夫でしょうか」と聞いた人に、「最終的に成功するかどうか、それは神様に聞いてくれ、しかし、私は医学者として最善を尽くす」と答えた名医がいました。また何パーセントの確率と言う医者もいます。確率とは、もう科学の世界でなく、神と信仰の世界です。80%成功すると言われれば、安心するのですか。私が残りの20%に入ることもあります。そうなるともはや祈りの世界、神の世界です。  

  西洋医学は、科学ですから、科学の性質として、人間を人体というように対照的に眺めます。しかし、東洋医学は、人間を体も心も一緒にして全体として見ます。ドイツでは、東洋医学の研究が発達して、針でもマッサージでも、医者が必要と見たら処方箋を書きます。西洋と東洋の交流です。神の医学には、東洋も西洋もありません。神は全体です。信仰をもつとは、この全体の視点に立つことです。

   第二にイエスの治療は。人格的であって、決して集団的治療はしないし、またおまじないで治すこともない。「わがこころなり、清くなれ」と言って、常に人格的交わりを通して癒しを行っています。  

   第三に、相手の意思を尊重する、「あなたの信仰があなたを救った」、「治りたいか」、「意思が医師」です。私はドイツで交通事故にあった時、治り際に医者が、「あなたはどうするのがよいと思うか」と聞きました。私は「水泳がよい気がします」と答えたら、処方箋を書いてくれ、プールがただになりました。ドイツの医者は、患者の意思を尊重するのだと思いました。

   よく考えてみると、病気は変化しています。私たちの小さい頃は、がんというものはきわめてまれでした。しかし、がんは多くなりました。なぜでしょう。それは、私たちの生活が変って、西欧的な肉食が多く、その反面、野菜が少なくなり、また科学的調味料とか、保存料ができ、たいがいの食物に入っています。がんは抗がん剤よりも自然食によって、治ります。アメリカのカトリックの病院長アンソニー・サテイラロは、末期がんで、玄米菜食療法で治りました。その記録も本になって出ています。

   しかし、病そのものが神の恵みである場合があります。ベイントン師は、重い病の時、「病気は時々上を向くためだ」と言いました、つまり、何もすることができなくなり、ただベッドの上で神の方を向く、その信仰的意味を教えたものでしょう。パウロは同じことをこう言いました。「私が傲慢にならないために私を打つサタンの使いである」と。
  祈りの答えは、「私の恵みはあなたに対して十分である。私の恵みは弱いところに完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)  

  しかし、もっと大きな恵みがあります。それは列王記下20:1-4を見てください。ヒゼキヤ王は、「あなたは死にます」と神様に言われたのに、ヒゼキヤの熱烈な祈りによって、15年命を永らえさせると言われました。どんなに重い病気の時も、このような大きな恵みもあることを信じましょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.