7月19日(日)「他者との交わり」説教要旨

   Ⅰヨハネ3:13-20  

   他者、その反対は隣人です。「人」という字は、長さの違う二つの棒が、支えあって出来ています。そのように人間は,互いに違う者が、支えあうのが本質です。
   マルチン・ブーバーは、それを「私とあなた」で説明しました。「私と彼、それ」ではありません。「あなた」と呼ぶ人が、「彼」や「それ」になる時、私の隣人は、「あかの他人」になったのです。
   その交わりの回復には、二人の間に大きな汝がなくてはならない。それは神さまです。「人」という字は、一人の人間が足を開いて立っている姿ともとれます。でも両の手がないではないか。それは祈るために前に組まれているのです。結婚式の時、男女が神の前に立って誓うことを思い出してください。二人の愛を結ぶのは、神の愛なのです。   

   ヨハネは愛を説きます。しかし、その愛を説くヨハネは、憎しみを知っていました。
「兄弟たち、世があなた方を憎んでも、驚くには及ばない。私たちは、兄弟を愛しているので、死から命へ移って来たことを知っている。愛さない者は死のうちにとどまっている」

   私たちの周りには、愛があると共に、憎しみがあります。憎しみとは、「あなた」が「彼、それ」になってしまうのです。光と共に闇・憎しみがあります。
   現在、恐ろしい犯罪が横行し、この暗さの中で、私たちにはどうしようもないこともしばしばです。絶望的になる場合もあります。
   しかし、どんなに暗い時でも、必ずそこには、なにがしかの明るさがあるものです。真の「あなた」が、彼やそれになった時にも、かの「大きな汝」はいらしゃるのです。
   ある社会活動の中で、なかなかうまくゆかず、がっかりしている人に言いました。「がっかりしない方がいい。どんなに暗い、うまくゆかない時でも、必ずそこには、明るい面があるはずです。それはどんなにうまく行かず、絶望的になった場合でも言えることです。そしてこの明るい面と暗い面が重なり合っているところに、希望があり、神さまがいらしゃるのです」と。  

  ヨハネは言います。「世があなた方を憎んでも、驚くには及ばない」と。「私たちは兄弟を愛しているので」、「死から命へ移ってきている」。ヨハネ福音書に、「光は闇の中に照る。しかし、闇は光に勝たなかった」と。そのことは、「信仰と疑い」の場合にも真理ですし、「愛と憎しみ」の場合にも真理です。   

   それでここには、死から命への移行、が語られているのです。それはただ好き者同士が、親しく交わっているだけなら、経験できないことです。
   もう一度読んでください。「死からいのち」です、私たちは自然の順序では、「いのちから死です」。私たちは、生が死に向かっていることをひしひしと感じています。しかし、神を知り、愛を学ぶ時、生から死に向かっていたそのラインが逆になるのです。愛なる神は、この関係を逆転させ、「死からいのちへ」と復活の道を示してくださいました。復活とは、単なる古い肉の命への逆戻りではありません。蘇生でなく、全く新しい現実が生まれるのです。  

   私たちは今、この地上で、再生のしるしとして洗礼を受けます。イエス・キリストに贖われ、私たちの自己中心の古い人は十字架に死に、キリストにある新しい命に蘇りました。しかし、私たちは、さらに愛することによって、「死からいのちに移ってきたことを知る」のです。   

   私たちの救われたのは十字架、まさにキリストの愛によるのです。聖書は言います、
「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから私たちも兄弟のために命を捨てようではありませんか」
さらに
「その愛は口先だけのものでなく、行いと真実を持って愛そうではありませんか」
とあります。それは愛を考えるのでなく実践する、その時、分かるいのちです。愛について語る人は多いのですが、実践する人が少ないのです。しかし、できるだろうか、そういう疑いが起こります。そのためにヨハネは
「そして神のみ前に、心を安んじていよう。なぜなら、たとい私たちの心に責められるようなことがあっても、神は私たちの心よりも大いなるお方であって、すべてのことをご存じだからである」
と言います。  

   ここで強調されているのは、自分自身の確信や傲慢ではなく、神の大きさです。「あなたの神は小さすぎます」。実践というものは、チャンスがあってできるものです。そこに躊躇がある場合もあります。しかし、その躊躇逡巡を信仰で乗り切った時、神は私たちの心より大きいのです。必要な力、必要な財は、その時その時で与えられます。何事も思いわずらうな。思い煩いは傲慢です。なぜなら、神ご自身が私たちのために、思い煩ってくださるからです。   

   そしてヨハネは、すべてを祈りで結びます。「そして願い求めるものは何でもいただけるのである」。神はその愛する御子をさえ惜しまずに与えられました。どうしてそのほかのものをお与えにならないことがあるでしょうか。「神は愛です」。あの愛する独り子さえ下さるほどに、私たちを愛しておられます。「神を愛する人は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにいます」のです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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