7月5日(日)「な る 信 仰」説教要旨

   イザヤ55:6-11 Ⅰヨハネ4:15-18

  「なる信仰」というのは、英語でいえばBecomeの意味です。その反対は、「ある信仰」で、静止した信仰、神さまが、じっと動かない永遠のようなものです。それに反し、「なる信仰」は、動的、動く神であります。
  イザヤ55:6に
「あなた方は主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」
とあります。このように「なる信仰」は、時があるのです。無時間的にのんべんだらりと、いつでもというわけにはゆきません。神は永遠だから、床の間の置物のようにいらっしゃる、「ある神」ではないか。違う、「神にお会いすることのできる時」がある。それは今だ、「定年退職してから、教会に行きます」、そうは行かない。「神に時がある」、それは「なる神」です。  

  「求めよ、さらば与えられん」と言います。求めるなら、与えてくださる。そのごとく、生きた、今、働いている神であります。
「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしく私に帰らない。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを果たす」
  (イザヤ55:10)
それが生ける神にほかなりません。  

  出エジプト3:13で、召しを受けたモーセが神に、「あなたの名は、何というのですか」と聞くところがあります。その答えは「私は在って在る者」と訳してありますが、へブル語はもっと動的です。
  これは、「私はならんとするものになる者」という意味です。つまり、神はイスラエルの苦悩に無関心な神ではなく、その苦悩の歴史に関与し、その歴史を担い、「なる神」であります。つまり、あなたが苦しみ、病み、失意のどん底にある時、その苦しみに無関係でなく、関与しようとする、あなたの苦悩に「なる神」であります。
  私たちの信仰は、変わらぬ静止している「ある信仰」ですか。それとも「なる信仰」でしょうか。  

  三位一体の神とは、「なる神」であります。父として天地万物を創造されただけでなく,キリストとして、現に人となり、私たちの中に住んでくださる神。それだけではなく、聖霊として、この小さな私の中に生きていてくださる。あなたの中にも生きる神であります。まさに三位一体の神とは、そのように「なる神」であります。  

  「なる神」はⅠヨハネ4章の愛の神です。愛は、じっと見ているでしょうか。愛は、声をかけ、対話し、助け、動きます。愛の神は、じっとしてはいません。「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は、神のうちにいるのである。私たちは、神が私たちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます」。
  これはまさに「なる神」ではないでしょうか。その神は、私たちの中に愛を呼びさまします。

   愛は今ここだけではなく、瞬間だけでなく、歴史をもっています。愛には、したがって成長があります。小さな愛もありますが、さらに大きな愛もあります。そしてもっと大きな愛もあるのです。
  最高の愛は、神の愛です。私たちの愛は、この最高の愛、神の愛の、この地上における模写にしかすぎません。つまり「なる神」の愛が、私たちの中になったのです。「それはわたしたちがこの世にあって、彼のように生きているからです」。不完全な私の愛が、完全な神の愛を映し出す、このように、神の愛を映し出す時、「愛には恐れがない」ということができます。

  ヨハネはさらに進展します、
「まさに完全な愛は恐れを外に追い出します。恐れにはこらしめがともない、恐れる人は、愛において完全になっていません。わたしたちが愛しあうのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」
私たちの愛はまだ不完全です。それは私の心の中に恐れがあることです。けれども、よく母親が、子供を危険から守るために、力強い攻撃者を恐れず立ち向かうことがあります。母親の子供に対する愛が、恐怖を乗り越えたのです。
  そのようにある時点を取ってみれば、私たちの中にも、恐れのない心が支配することがあります。その時、私たちは瞬間的、ある時点においてのみですが、完全な愛をいただいているのです。このある時点での愛は、永遠の神の愛の写し絵です。それはわたしたちの地上の不完全な愛の中にも、時々現れることです。

  しかし、不完全ゆえに、地上の愛は破れやすいものです。それは壊れやすい、薄い瀬戸物のお皿に似ています。ただ違う点は、瀬戸物なら壊れたらもとに返りませんが、幸いなことに、愛は、またもとに戻すことができます。それは神の愛がわたしに注がれている証拠です。
  ここには不完全なわたしたちの愛と、完全な神の愛との相互関係があります。そしてわたしたちが地上の生涯を終える時、神の完全な愛に包まれるのです。それはまた「なる信仰」の完成体でもあります。それが神の愛の御国になるのです。私たちは、この愛の御国を目指しつつ、今ここで、愛し合おうではありませんか。「なる信仰」は、まだ完成していないけれども、進歩します。前進する希望の信仰であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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