5月24日(日)「祈って待て」説教要旨
創世記22:6-8 使徒行伝1:6-8

   祈りと聖霊は結びついています。使徒行伝の初めにあるように、120名ばかりの者が一団となって祈っていたところ、突然、聖霊が火のように下り、最初の教会が生まれました。
  またルカ福音書11:13には、イエスは「求めよさらば与えられん」と言われた後、「天の父は求めてくる者に聖霊を賜らないことがあるだろうか」と申しました。

  私たちは、聖霊を自由にすることはできません。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それが、どこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者も、みな、それと同じである」
  (ヨハネ3:8)
とあります。また「聖霊を支配しようと思うな、聖霊があなたのすべてを支配したもう」(テン・ブーム)と言われています。
  私たちは聖霊の主人公ではなく、聖霊が私の主人公なのです。したがって、私たちはただ祈ることによってのみ、聖霊を受けることができます。私の聖霊経験もそうでした。祈って、約一年後に聖霊経験を与えられました。

  「祈りは聞かれる」と言われます。確かにイエスは、
「神を信じなさい。だれでもこの山に移って海の中に入れと言い、その言ったことは必ずなると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりになるであろう。そこであなたがたに言うが、何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」
  (マルコ11:23)
と言いました。
  祈りにおいて「すでに得た」ということが大切です。祈る以上、私のてもとには「ない」のです、しかし、すでに「ある」と信じることが大切です。「すでに」ということは、もう祈りが聞きどどけられたということです。「エホバ・エレ」(神備えたもう)(創世記22:14)とは、祈りをした人すべてが経験したことです。

   祈りは、そのように周りを変えます。しかし、また祈りは自分を変えます。自分を変えなければ、真の祈りではありません。
  イエスのゲッセマネの祈りは、「どうかこの杯を去らせたまえ」でしたが、祈りの終わりは、「されどわが心のままにとにはあらず、御心のままになさせたまえ」でした(マルコ14:36)。
  主の祈りで、自分のことを祈るのは、4番目からです。「われらの」祈りは、主の祈りの六つある祈りのうち後の半分です。
  初めは、「御名をあがめさせたまえ」そして「御国を来らせたまえ」、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。その祈りは、サムエルが「僕聞く、主よ語りたまえ」と言ったように、私たちが受け身になって、主のみ旨ねを聞くことでもあります。
  このように祈りは、私たちの神への求めであると共に、また私たちが神のみ旨ねを聞く行為なのです。み旨ねを聞いて、私自身が変えられなければなりません。

  祈りは信仰的感覚をすまさせ、洞察力を与え、何が問題か、分かるようになります。それには、長い祈りが必要です。ですから、祈りは、待つことが必要です、

  イースターからペンテコステまで五十日が必要でした。弟子たちは、この間、ひたすら、心を一つにして祈りました。ある人が心の病んでいる隣の人のために、一、二年祈っていたら、その人が教会に行きだし、病もよくなったということです。祈りは、すぐに聞かれる場合もありますが、長く忍耐をもって祈らねばならないことも多いのです。  

  使徒行伝の一章によると、弟子たちは復活の主に出あって、うれしくなり、有頂天になりました。「イスラエルの国を復興するのは、この時ですか」と。

  ここに弟子たちの誤りがあります。彼らは古い考えに捕らわれていました。イスラエルの国、ダビデの王国を復興する。それは目の前にあるローマ帝国を滅ぼして、新しい国をつくるという考えです、
  しかし、実はそれは新しい考えでも何でもなく、ただ物質的な領土的なものにとらわれた古い考え方にほかなりません。人間は古い、私たちの目に見えるものにとらわれています。さらにそれだけでなく、弟子たちは、「今ですか」と時間にとらわれています。「いつですか、今ですか」、しかし、彼らは「神の時」があることを知りません。

  イエスは言われます。「エルサレムを離れずして、私から聞いた父の約束を待て」と。まず「離れず」ちょこちょこ走り回らず、じっと動かずに待ちなさい。ここには、私たちの空間(場所)と時間が示されています。
  信仰とは、空間的には、動かずに、不動です。今あなたに与えれた場所にじっとしていなさい。時間、それは神のものです、だから「父の約束を待て」神の御声にきかなくてはならないのです。この父の約束を待つ行為、それが祈りにほかなりません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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