5月3日(日)「肯定と否定」説教要旨
 詩編94:18-19 マルコ9:14-24

  人間には、おおよそ二種類の人がいて、何でも肯定的に見る人と、何でも否定的に見る人とがいます。
  否定的な人は、病気が良くなって退院して来た時、「よかったですね」と言うと、「いや、まだ分かりませんよ。完全になおった訳ではありませんから。」と答えます。
  反対に肯定的な人は、病気で入院する時、「大変ですね」と同情すると、「いいえ、たった一週間です。一週間したら元気になってもとどおり働けますよ」と言います。普通前の人を「ねくら」と言い、後の人を「ねあか」と申します。「ねあか」の方が信仰的に見えますが、信仰とは、現実の否定を通り抜けて神の肯定に至ることです。
「私の足がすべると思った時、主よ、あなたのいつくしみは私を支えられました」
  (詩編94:18)
と、否定的な状況の中でも、ポジティヴなことが神からくるのです。

  「ねあか」は、自信過剰で傲慢で失敗することがあります。また「ねくら」の人は、謙遜で信仰的に見えますが、劣等感に陥りがちです。
  信仰とは、私たちの性格のよしあしを越えて、神の恵みが働くことです。「私の足がすべる」と思った時、神の「いつくしみが私を支えられるのです」。恵みは、私の性格ではなく、向こう側から来るのです。

  マルコ福音書9:14-24の例は、もっと深刻です。これは山上の変貌の記事のすぐ後に来ます。癲癇の子を弟子たちに治してもらおうとしたところ、できないので、父親は山から降りてきたイエスにお願いします。「できますれば、私どもをあわれんで、お助けください」と。イエスは彼に言いました「もしできればと言うのか。信ずる者には、どんなことでもできる」。その子の父親はすぐに叫んで言いました、「信じます、不信仰な私をお助けください」と。

  キリストの使徒パウロも癲癇だと言われています。それでパウロは、
「自分自身に関しては、ただ弱いこと以外には誇らない」
  (Ⅱコリント12:4)
と言っています。今ここに出てくる癲癇の子は、パウロの少年時代の姿ととることもできます。そして彼はそこから「私は弱い時にこそ強い」という恵みのみ声を聞きます。

  私たち信仰者も、この山の下での苦悩を見失ってはなりません。キリストは十字架なしの喜び、苦悩ぬきの恍惚(エクスタシー)を否定なさいます。
  ただしかし、山の上のエクスタシーも、決して単なる夢まぼろしではありません。それは復活の将来の望みとして与えられていることで、私たちはこの望みの肯定のゆえに、勇気をもって大胆に、現実の山の下の苦しみ(否定)を受け、戦ってゆくことができるのです。

  ところが山の下にはただ苦悩があるだけでなく、そこにはまた「弟子たちの無能」もありました。「くのう」と「むのう」は日本語でも、大変よく似た発音です。これは私たちキリスト者の地上の姿でもあります。
  私たちは苦悩になやむだけでなく、また自分の無能にも悩まざるをえないのです。しかし、そこにはただ無能力だけがあるのでしょうか。ただ否定のみが支配しているのでしょうか。 イエスは答えて言います、「おお、何という不信仰な時代でしょう。私は、いつまであなたがたといっしょにいるでしょう。いつまで、あなたがたを我慢したらよいのでしょう。その子を私のところに連れてきなさい」と。
  キリストは「無能」でなく、それを「不信仰」と呼びます。私たちは、いつも自分の無能力をかこちます。そしてネガテイヴになり、もっと力があったらよいのにと思います。けれども、それを決して自分の「不信仰」には帰しません。
  私たちが「無能力」ととらえるところを、イエスは「不信仰」ととらえます。イエスはこれまで何度も、弟子たちの小さな信仰を嘆かれました(4:40)。そしてさらに後の方では、祈りの不足の問題としてとりあげました。私たちの否定的ネガテイヴな態度は、実は、不信仰で、祈りの不足だと言うのです。

  しかし、ここで父親の態度を見ましょう。この父親には、子供の病気という苦しみのほかに、折角信頼して弟子たちにお願いしたのに、できなかったという嘆き苦しみがありました。またこの父親にも不信仰がありました。
  けれども、父親は弟子たちにまさります。というのは、その不信仰のところで、信じようとしたからです。「信じます、不信仰な私をお助けください」という、この声は、まさに真の信仰を表していないでしょうか。

  ここには祈りがあります。不信仰な私を、助けてくださいという、切なるうめきにも似た祈りがあります。ここでは自分の不信仰が祈りの対象になっています。
  誰が一体このように、自分の不信仰を祈りの対象にするでしょうか。自分の不信仰を棚にあげて、別な願い事に夢中になるのが祈りでしょうか。実は私たちはみな、この自分の不信仰をこそ祈らねばならないのです。弟子たちに祈りがなかったわけではないでしょう。しかし、自分の不信仰を対象に祈ることはしませんでした。

  次にこの父親のすばらしところは、ただ自分の不信仰を祈っただけでなく、その前に、「信じます」と言っていることです。不信仰を祈りの対象にしながら、その前に「信じている」のです。これは不信仰の中の信仰です。否定の中の肯定です。「信じます」と言いつつ、「不信仰な私をお助けください」と祈ること、そこに不信仰の中の信仰、そして信仰の中の不信仰が明かにされます。
  そして私たちの信仰はいつも、そのような姿をもっているのではないでしょうか。ネガテイヴの中で、実にポジティヴなもの、それが信仰ではないでしょうか。山の上の輝きがあるからこそ、この山の下の苦しみは耐えやすくなります。しかし、山の下の苦悩のゆえに、山の上の輝きはいっそう輝きを増します。
  イエスの復活のみからだには、十字架の傷痕がはっきりと見られました。十字架の言葉は滅びる者には愚かであるが、救われる私たちには神の力です。最初に申しました。肯定的、否定的、それは性格ではない。信仰です。信じ祈ることは、誰にでもできます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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