4月26日(日)「誤りやすい人間」説教要旨
マタイ18:21-35

  ラテンの諺に「過ちを犯すことは人間的なことである」というのがあります。この諺は二通りに解釈できます。
  一つはごく平凡に「人間は過ち安い、罪深いもの」という意味です。しかし、これを「誤りを犯すことは、人間らしいヒューマンなこと」と解することもできます。ごりごりの几帳面で厳格な人が、何か間違いを仕出かすと、ホットして、ああこの人も人間だったのかと、暖かいものを感ずる場合があります。それです。

  キリストは、この後の意味で人間の罪を暖かい目で見ていたのではないでしょうか。イエスのたとえ話に出てくる人物を見てごらんなさい。

  「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11以下)で、弟息子が、遺産を生きているうちにくれと言っても、父は黙って渡し、放蕩に身を持ち崩し帰ってくると、父はとんで出て行きます。その場合「悔い改めればゆるしてやる」ではありません。悔い改める前にゆるしているのです。
  そこに兄息子がでてきます。お父さんが弟息子に気前よくするので不満です。その時、父の見ていたものは、この兄息子の見ていたものとは全く違います。兄息子の見ていたのは、弟の不行跡と失われた財産です。しかし、父は「この子はいなくなったのに、見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前ではないか」と言います。父親は、放蕩息子の魂のみを愛し、財産を失うことは、ほとんど視野に入りません。父の関心は、かけがえのない放蕩息子の「魂」の救済です。私たちは教育で子供の学業や成績よりも、その魂を愛しているでしょうか。

  イエスのたとえでもっとも人間味のきわまったものは、「不正な管理人の話」(ルカ16:1以下)です。
  主人の財産をごまかし、ちょろまかしていて、不正が見つかった時、主人の負債者を集めて、皆まけてやったのです。
  しかし、この世の富で友人をつくるやりかたが、信仰者の模範になるといって、主人はほめるのです。畑の中に宝をみつけた農夫が、隠しておいて、持ち物を売り払ってその土地を買うというのも、ほほえましくらい、ちゃくい人間の欲をあらわしています。

  そのほか、夜中に友が来たので、友人の寝ているのにたたき起こすたとえ。不正な裁判官のたとえ、イエスのたとえに出てくるのは、みなその辺にたくさんいる「誤りやすい、ちゃくい人間」たちです。「取税人・罪人の友」として食事するイエスに、そういう人間味を愛する姿が現れていないでしょうか。
  つまりイエスの福音とは、徹底した恵み、罪の「ゆるし」です。
  道学者的律法主義者、ピューリタン、厳格者などは、福音とはずれているのではないでしょうか。

  カール・バルトは、罪をZwischenfall(途中の出来事、挿話的事件、付随的出来事)と申しました。圧倒的な恵みこそが、神の中心的出来事であると。すると厳格な神学者たちから、反論が出ました。「それでは罪の厳しさはなくなり、さばきもなく人間はぐうだらになる。十字架はいらなくなる」と。

  しかし、皆さん、十字架のイエスは、あの「天国に入る時、私を覚えていてください」と言った盗賊に、「お前は前非を悔い改めたか、これでこりたか」など、責める言葉を一つも言わず、
「あなたは、今日、私といっしょにパラダイスにいる」
と恵みの言葉だけを言いました。ひょっとして、私たちはキリストの福音を誤解していたのではないでしょうか。
  イエスがはげしく怒るのは、パリサイの律法主義者たちです。「わざわいなるかな偽善者なるパリサイ人」(マタイ23章)。 

  ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、夫を殺した農婦がゾシマ長老のもとにざんげに来る時の、長老の言葉こうでした、「神さまはすべてをゆるしてくださるのだから、心底から後悔している者を神さまがおゆるしならぬほど、大きな罪はこの地上にはないし、あるはずもないのだ。それに神の愛をすっかり使いはたしてしまうくらい大きな罪など、人間が犯せるはずもないのだしね。それとも神の愛を凌駕するほどの罪が存在しうるとでもいうのかな」。

  それでは世の中、悪いことがはびこるとでも言うのでしょうか。しかし、むしろ反対にゆるしこそが、人間にその罪の深さを教えるものではないでしょうか。
  軍事力で、テロはなくならない。むしろ対話し、民生の豊かさによってテロはなくなります。イエス・キリストにあるのは徹底した恵みの体系であります。

  今日の聖書をみてください。ペテロが、
「兄弟が罪を犯した時、七回ゆるせばよいのですか」
と問うた時、イエスは、
「七度を七十倍するまで」
と言いました。
  「七回までゆるせば」とは、道学者的律法主義者のペテロの姿です。しかし、イエスのは、徹底した恵みでした。そしてその場合、大きな罪とは、自分の罪がゆるされていること一万タラントの負債を忘れていたことでした。そして人の罪を責めることでした。

  「ゆるし」というのは、お前は悪いはけれど、勘弁してやるというのではありません。自分の膨大な借財に気づくことです。それなら正義はどうなるのか、「借金を返せ」ということは、正しいことです。しかし、それはたった百デナリです。その人の負っているのは、一万タラントです。その時、「最大の正義は、最大の不正義」となります。
  十字架の上で、キリストが、「彼らの罪をゆるしてやってください」と、あなたの罪のためにも祈られたのに、この十字架から離れ、神の恵みと愛に生きないで、自分の正しさという殻に閉じこもっているなら、あの兄息子と同じです。それが自己中心という、もっと大きな罪なのです。

  今、私たちは、十字架の愛をどこかで失っていないでしょうか。その時、神の子がご自身のいのちをもってあがない取ろうとしている大切ないのち、自分の魂と共に隣人の魂を見失ってしまっているのです。そしてその時、互いにゆるしあわず、さばきあっています。しかし、神は、私たちが罪のゆえに、冷酷さのゆえに失ったものを、回復しようとして、失われた魂の重荷を十字架で負われたのです。ここにおいて十字架は、罪の自覚のもといであると共に、愛の回復、魂の復権なのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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