3月22日(日)「仕事と信仰」説教要旨
Ⅰコリント3:10-15

  私たちは「仕事」というと、職業のことをすぐ考えます。 しかし、仕事必ずしも、生活費を得るための職業とは限りません。お金に関係なく仕事はあります。
  たとえば主婦の家事は、どうでしょう。芸術家が、その絵が売れないうちは、何かアルバイトをして金を稼ぎ、彼の本当の仕事は絵を描くことにあるといった場合もあります。教会の週報を作る、看板を書く、お金にはなりませんが、それは立派に神と人に仕える仕事です。

  病気の人も、仕事ができます。重病のベッドで困っている人のために編み物をしたキリスト者がいました。年とって、耳が聞こえない方が、信濃町教会で一番前に座っていました。そこに座っているという行為が、人びとに大きな勇気と喜びを与えました。この間、天に召された青年は、筋ジストロフィーが、神からの賜物と言いました。彼にとって病を生きぬくこと、それ自体が仕事でした。

  「仕事」とは「仕える事」と書きます。「働く」とは、「はたを楽にする」ことだと言われます。つまり、何かに仕える、奉仕することが仕事です。
  ドイツでは職業のことを、Beruf(ベルーフ召命)と言います。ルターの宗教改革により、万人祭司で聖俗の区別がなくなり、どんな仕事でも、神に仕える事になりました。今日、仕事も複雑になり、新しい仕事を探すまで、仮にビラ配りのアルバイトをしていた、それは誰かに仕える仕事には違いないが、神の召しとまで言えるでしょうか。そこでは、仕事の場が、神の召しとなります。

  パウロは、
「私に与えられた神の恵みにしたがって、賢い建築師のように、私は土台をすえました。ほかの人が上に建てます」
と言っています。彼は建てますが、「与えられた神の恵みにしたがって」です。滅多やたらに建てるのではありません。

  「本末転倒する働き手は、神の御業を害する」と言われます。本末転倒とは、恵みによらないで、自分の好みにしたがって建てることです。仕事には、利己主義がつきまといます。しかし、自己主義と利己主義とは、全く違います。利己主義とは、仕事において自分の利益しか考えないことです。自己主義とは、仕事において、自分の考え、工夫を中心にすることです。それは良いことです。



  また建築で一番大切なのは、土台です。賢い建築師はまず土台を考えます。「すでにおかれたもの以外の、ほかの土台をすえることは誰にもできません。その土台はイエス・キリストです」。
   私たちは、毎日多くの仕事をしています。それはまた何の土台上に立っているのでしょうか。私たちは、毎日何を、どのように建設しているのでしょうか。そのことが、第一に問われています。

  イエス・キリストの、あの岩の上に建てた家と、砂の上に建てた家のたとえを思い出してみましょう。私たちの毎日の業は、砂の上に立っていませんか。キリストの土台ということは、ただ「二千年前ユダヤにお生まれになった歴史的イエスの上に」と言う意味ではありません。神が永遠の昔から、イエス・キリストにおいて、人類を救う御心、「インマヌエル神われらと共に」という、永遠の救いの愛の御旨の上に建てるのです。

  あなたの仕事、それは一体、何の上に立っていますか。「これはいわば教育上の問題にすぎません。神さまのお世話になることでなく、教育学の専門家がいます」と言ってはなりません。
  たといそれが経済上の問題でも、家政上の問題でも、政治上の課題でも、その根底には、「キリストの愛、神わられらと共に」が、なくてはなりません。

  経済通の言うところによると、バブルで投資した商売はみな失敗しているそうです。私は、ある絵本の出版社を知っています、年にほんの数点の本をだすだけです。しかし、十分吟味して、きわめて程度の高いもののみ出版します。その方が、変なベストセラーに浮かれて、倒産する出版社よりも堅実に伸びて行くそうです。砂の上に建てた経済は、またたくまに崩れるのは、現在世界中が経験しています。 全く地上の法則に左右されているように見える経済活動でさえ、そうです。そこにもパウロの教会建設の原則が貫いています。

  ではキリストの上にどう建てるのでしょうか。
「誰かはこの土台の上に、金・銀・宝石・木・草・わらを用いて、建てるならば、各々の仕事は、はっきり分かってくるでしょう。かの日は火の中に啓示され、明らかになります」。

  建てるにもさまざまな素材があります。「金・銀・宝石・木・草・わら」と、六つの材料をあげています。その三つは、火に燃えないもの、他の三つは燃えるものです。
  燃えない金・銀・宝石に比べて木・草・わらは安い材料です。安い材料で作れば、建築は安く、早くできます。今日、「安く、早く」というのは、この世界の価値観になっていませんか。問題は、しかし、安く早いことではありません。その真の成長、成功は、目前のものだけでは測れません。
「かの日は火の中に啓示され、明らかになります。 各々の仕事が、どのようなものであるか、その火が試すでしょう。
  ある人のその上に建てる仕事が、とどまれば、報いを受けるでしょう。ある人の仕事が焼け落ちてしまうなら、損をこうむるでしょう。
   ただその人自身は、火をくぐり抜けるようにして、救われるでしょう」

  これは終末のさばきの火のことを言っています。ただ最後の日を待たなくても、そのしるしが、今地上で行われることがあります。たとえば、死・危機・戦争・災害・病気その他、いろいろあります。

  今は小さな収穫と思われるものが、案外、最後に残るものである場合があります。神学校を出て、最初に北海道の田舎町の教会に赴任し、若さのゆえに、全くどうしようもなくなって、ほうほうのていでそこを離れた時、神は、必ずしもそれを失敗とはお取りになりませんでした。何年か立つうちに、その実りが明らかになってきました。
  恐れは、目先のことばかり考えているところから起こります、永遠に残るものに目を注げば、恐れは消えます。
人の心には多くの考えがある。しかし、主の御旨のみがよく立つ」
  (箴言19:21)


   たとい道に落ちたごみ一つを拾う行為でも、愛によってした業は、残るでしょう。偉大な病院を建てるような事業でも、もし自己の利益のためにしたなら、その業は燃えて残らないでしょう。
  イギリスのある宣教師が、アフリカに伝道し、その土地の言葉で聖書を翻訳しました。それを出版しようと本国に持ち帰る航海の途中、船が難破して沈みました。しかし、その厳重に包装された翻訳は、不思議な導きで、イギリスのある海岸に着き、無事出版されました。
「あなたのパンを水の上に投げよ。いく日かの後、あなたは再びそれを得るであろう」 (伝道11:1)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.