3月15日(日)「私に何ができるか」説教要旨
マタイ25:14-30

  私たちは時々、「私にできるのだろうか」と言わないでしょうか。その問題をイエスのたとえを通して学びましょう。
「また天国は、ある人が旅に出る時、その僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて旅に出た」。

  タラントは、当時の目方の単位で、銀一タラント(一六年分の給料)は数千万円にのぼるでしょう。このタラントは英語のタレント(才能)の語源になったものです。しかし、ではここで主人は、「それぞれの能力に応じて、ある者には・・・」とあります。したがって、それは能力に応じて与えられる神の賜物です。「タラント」とは、私たちが預かった物です。それを「使命とか職業、仕事」、何と取るかは、各自の自由ですが、それはいつも私たちに固有のものとしてではなく、この与え主との関係の中で意味をもち、力を得、用いられるものです。

  自分固有のものと捕らえる時、現実とは違います。それは老化し、衰え、ついに消えるものです。一タラントの者が、それを地面に隠し、固有のものとして捕ろうとした時、その財はいかなる終局をたどるか見れば、分かるでしょう。私たちのタラントは、いただいたものなのです。

  主人は、三人の僕を同じように、呼び集めます。三人を等しく呼ぶ。そのように、私たちがいかなる者であれ、不信仰であれ、信仰深くあれ、自信をもった人であれ、劣等感に悩む人であれーまたたとい神を認めない人であれ、この主人に呼ばれているのです。
  あなたの持っているすべてのものを、そのよって来る根源(主・神)との関係なしに持つことはゆるされません。ちょうど美しい花が幹から切りとられる時、しばらくその美しさを保つとしても、やがてしぼみ何の実もむすばないように、あなたの持つ一切も、この根源にあるお方と無関係にあるならば、空しく消え去るでしょう。そのことは死、病気、事故を考えれば分ります。能力は一瞬にして失われます。

  しかし、どんな人でも例外なしに招かれ、呼ばれています。五タラントの者だけではなく、一タラントの者も。それだから、その自分が今持っているものを誇ったり、いばったりはできません。また自分の持っているものが、あまりに貧弱なので、招かれ、呼ばれていないのではないかと心配する必要はありません。万人等しく皆招かれています。
  この根源にあるお方は、「主人」と呼ばれています。主とは従ではなく、付録やおまけではありません。中心にある事柄になるものです。そういう「主」がいるということは、幸いなことです。
「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「私が、生きている時も死ぬ時も、身も魂も、私自身のものではなく、私の信頼すべき救い主イエス・キリストのものとなることであります」
  (ハイデルベルク信仰問答)。

  この長い生涯、愛する者を失った時、戦争、失業、希望を失わせることや、みにくい争い、勝ち誇った喜び、それらすべてを包んで、一人一人が身も魂も、生きる時も死ぬ時も、もはや自分のものでない、彼らの生涯の根源であるお方に支えられ続けいます。そのような主が、今、あなたを呼んでおられる。だから誰が多くもっているからではなく、その源なるお方との関係の中でのみ生命を持つのです。

  ところがこの賜物には相違があります。五タラント、二タラント、一タラントと。それではあまりにも不公平だと言うのでしょうか。それは今述べた、与え主との関係を忘れた言葉です。
  与え主との関係が主となる時、問題は、このタラントを生かせるかどうかにかかってきます。お互いの大小ではありません。誰が一番大きいか、誰が偉いかではなく、誰がその源である与え主に忠実であったかです。
  五タラントはほかに五タラントをもうければ、よいのです。五割る五は百%、二割る二は百%ですから、一タラントの人は、一タラントをもうければよかったのです。主人は寸分違わない言葉でほめました。神の全能の偉大な力から見る時、五タラントも二タラントも一タラントもみな、わずかなものにすぎません。

  この「忠実」はピストスで、「信仰」のピステイスと語源が同じです。忠実とは自分の限界まで、ぎりぎりに生きることです。火事の時、ふだん出せない重いタンスが出せる。それは一心不乱になり、限界のぎりぎりまで力を出したからです。
  かってバルトは留学生の質問に答えました、
「私たちは何事をする場合にも、できるだけのことしか、できない。君たちも、この私にも。しかし、できるだけのことしかできないという制約は、同時に、『できることははできる』という祝福でもある。何とすばらしいことではないか。この『できることははできる』ということは!私はできるかぎりのことをする。福音は理解しているが、その実践がうまくゆかないということではない。福音を知らされて生きるとは、自分にできることは何でもするということである」。

  私たちもまた「できることしか、できない。しかし、それはできることはできるという祝福を含んでいることを忘れないようにしましよう」。

  しかし、人間は自分の脳を三分の一しか使っていないそうです。一タラントを隠しておいた僕をごらんなさい。隣から鋸を借りてきて、これは大切だから、金庫にしまっておこうという言う人はいません。それを使うでしょう。自分のものを失うまいとして、戦々恐々、自分の小さな殻に閉じこもって何もしない人になってはいけません。
  人間は結果を見ます、しかし、神は私たちの全努力を見られます。
「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得る」(伝道の書11:1)。

  必ずそれは実りがあります。それは人間の思う通りの仕方ではないかも知れません。しかし、一生懸命したことには、必ず実りがあります。

  「それなら、わたしの金をせめて銀行に預けておけばよかったのだ」、それは、どんな小さな者にも何かができるということです。いや、あなたでなければできない仕事がある。それは僅かでも、取るに足りないものでも、すばらしいことがそこから始まるのだ。あなたがその小さな場所を、全能の神に賭ける場所とするならば。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.