3月8日(日)「神を離れる」説教要旨
詩編139:1-12 ローマ8:35-39

  「神を離れる」という題は説教として、おかしいと思われる方、詩編139:7で
「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか」、
  「わたしはどこへ行って、あなたのみ前を逃れましょうか」
と詠う詩人は、神から離れた経験があるのではないでしょうか。
  聖書で、アダムは、茂みに隠れて、神から逃れました。モーセは、「私は口べたです」と言って逃げました。ヨナは神から、「ニネベに行って、宣べ伝えなさい」と言われたのに、恐れて反対のタルシシ行きの船に乗りました。ペテロも、「その人を知らず」と言って逃げました。

  しかし、今日の詩編では「逃れましょうか」と疑問形であって、決して「逃れました」ではありません。私たちは神から離れても、離れぱなしというのはなく、離れながらも、「神」が気になっているのが、実状ではないでしょうか。
  正宗白鳥がそうでした。若い頃、植村正久牧師に師事し、その後、神から逃れても、たえず神が気になっていました。死のまぎわに植村の娘、環牧師を呼んで洗礼を受けました。「神」を、まったく完全に信じ切るというのは、人間には瞬間としてはありえても、永続的にはありえないのです。しかし、人間は、また反対に完全に神を否定しきることもできないのです。

  そこで詩人は続いて言います。
「わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが黄泉(よみ)に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼの翼をかって海の果てに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしを支えられます」。

  何と言うことでしょう。「黄泉」というのは、地獄です。地獄に落ちても、「あなたはそこにおられます」。
  「神とは否定しても、否定しても、否定しきれない存在である」とティリッヒは言いました。人びとは「人をゆるせ」というイエスを十字架にかけて殺しましたが、その十字架の上で、自分を十字架つけている人のために「父よ、彼らをゆるしてやってください」と祈られるイエスの大きさ、七回を七十倍するまで、間違ったものをゆるす、その大きさ、神の大きさは、ただ空間的に宇宙大に大きいというだけではありません。その「ゆるし」の大きさでもあります。神のふところは広いのです。

  さらに詩人は言います、
「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわが座るをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探りだし、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。・・・」

  役者は一枚上手です。私が神を知るのではない、そんな単純なことではい、神が、この神から離れる私をちゃんと知っておられる、いや探り、知り尽くされておられるのです。そうだ、ひっくりかえるのだ、今まで、太陽が地球のまわりをまわっていると思っていたのが、反対に、地球が太陽のまわりをまわっているように、私が神を知るのではなく、神がこのつたない私を知り尽くされているのだ。

  それどころか、
「わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。あなたは後ろから、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます」。

  それは「わが心なり、きよくなれ」と言われ、あのライに手をさわられた御手です。「このような知識は、あまりに不思議で、わたしには思いもおよびません。これは高くて達することはできません」。神は言われます、「あなたが私のところにこられないのなら、私の方で、あなたのところに行ってあげよう」と、それがクリスマスです、神の子の受肉です。 

  またもっと倫理的、社会的に、「闇はわたしをおおい、わたしを囲む光は闇となれとわたしが言っても」。
  今日、皆そう言いませんか、「この暗さ、この混乱」と、しかし、「スイスは人間の混乱と神の摂理によって今日ある」という格言があります。現実にあるのは、「闇」ではないでしょうか。私たちのまわりにあるのは、「混乱」ではないでしょうか。

  しかし、その答えが素晴らしいです、「闇はわたしをおおい、わたしを囲む光は闇となれとわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません」。なんという言葉でしょう。皆さん、光を造った神は、また闇も造られました。闇があるところ、必ず光があります。
  あなたが光に背を向けて立ってご覧なさい、あなたの前に影ができます。闇です、しかし、その闇はあなたが光に背を向けて立っているからできたのではないでしょうか。闇を見たら、その背後に光があると信じなさい。希望とは、闇を光に変える力です。

  最も悪い時、それは最も良い時に接しています。それが「闇はわたしをおおい、わたしを囲む光は闇となれ」とわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません」の真の意味です。「私は見られ、知られ、私の生活の日々いつも守られ、神に助け支えられているのです」。
  これは私たちの生活のただ中で、特殊な宗教的ことだけでなく、世俗的な日々の生活の中で、起こる出来事なのです。神は、あなたをほかならぬあなたをこそ、知り尽くし、愛されるのです。あなたを知り尽くす、それは神の愛なのです。十字架の愛なのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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