3月1日(日)「オバマ・ショック」説教要旨
レビ記19:17ー18 ヨハネ13:34-35

  オバマについては、誰でも関心をもっており、世界で80%以上の支持があります。
  彼は、1961年ハワイの生まれ、父はアフリカ・ケニア出身の黒人、母はアメリカ・カンザス州出身の白人、両親は彼が2歳の時、離婚し、その後ハワイで母と母方の祖父母に育てられます。母はその後、インドネシア人留学生と再婚したため、6歳から4年間インドネシアで生活します。
  コロンビア大学からハーバード大学法科大学院を卒。その後弁護士として、シカゴ市南部の黒人街で地域福祉活動に従事し、イリノイ州下院議員を経て、連邦上院議員になり、大統領。シカゴのトリニティ合同教会(組合教会)で、解放の神学のライト牧師の感化を受け、27歳で受洗。神学的には、キリスト教現実主義的な神学者ニーバーの影響を受けています。

  オバマについて考える時、経済・政治・民族、宗教の4方面から考えることができます。オバマを批判する人は、今度の経済、金融危機はオバマをもってしても救えないとか、アフガンの軍事介入はオバマのベトナムとなる等と言っています。
  しかし、経済危機も軍事介入も、前のブッシュ政権の失政のつけでしかありません。彼がこのことを乗り切れるかどうかはまだ未知数です。それにけちをつけても始まりません。たとい彼がこれらに失敗しても、彼の真の価値は、民族、宗教問題の理想にあります。彼の信念、思想、哲学にあります。

  彼はリンカーンとキング牧師の影響を受けています。それは自由・平等・博愛の原則でアメリカの独立宣言、フランス革命の中心理念です。しかし、その背後には、キリスト教の信仰があります。
「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」
  (マタイ5:44)。

   「わたしは新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛しあいなさい。わたしがあなたが たを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。互いに愛しあうならば、それ によって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」
  (ヨハネ13:34-35)。

   「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」
  (ガラテヤ2:26-27)。
 これはイエスの精神であり、パウロ、ヨハネの信仰と愛の神学であります。オバマの大統領就任演説には、次のように、その精神が出ています。


  「繁栄する者だけがいつも得をするようなシステムではいけないのです。私たちにとって経済の成功とはGDPの大きさではなく、機会をすべての人に与えることです。それも慈善の心からではありません。公共利益につながる最も確かな道なのです」。

  「安全保障とは、正しさ、正義のもとに生まれていきます。謙虚さと節度と調和のとれた形でもってゆく、その手本をしめさねばなりません」。

  「より大きな協力と理解を国家間で進めることにより、新たな脅威に立ち向かっていきます。イラクでは、責任ある形でイラクの人びとに、その将来を任せたいと思います。アフガンでも平和を築いて行かねばなりません。付き合いの長い友好国とも、また敵対国とも核の削減について話し合って行かねばなりません」。

  「私たちの国の強さは、多様性に富む伝統です。アメリカ合衆国には、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教、ヒンズー教、無神論者もいます。私たちの国には、あらゆる言語や文化があります。・・・イスラムの世界とは、互いに尊重しあい、共に前に進んでゆく新しい道を探します。・・・貧しい国とは協力し、農場に豊かな実りをもたらし、きれいな水が流れるようにします。空腹を満たし、飢えた心も満たすようにします。私たち恵まれている人びとは、他の人たちの苦悩を忘れてはいけない。また世界の資源と他の人びとを思いやらずに、地球の資源を使い果たしてはなりません」。


  確かに今述べた、経済、政治の問題は、百年に一度の危機で、オバマをもってしても、解決できないかも知れません。しかし、一人の人間にすべてを期待するのは、ある意味で偶像崇拝です。
  かってキング牧師は、非暴力抵抗の運動を始め、自由、平等、博愛の精神でゆき、道半ばで凶弾に倒れました。それでも、その運動から、オバマのような人が生まれてきたのではないでしょうか。私たちは今、彼の民族、宗教の問題の理想に目をむけなくてはなりません。それは、相手を尊重する道です。

  ではこれらのことは、キリスト信仰とどのようにかかわってくるのでしょう。それは日本でよく見られるように、あれもこれも同じという相対主義「あいまいな日本」ではありません。イエス・キリストの信仰を、堅く貫くことは、イエス・キリストの十字架の精神に生きることです。それは「汝の敵を愛せよ」を地で行ったものにほかなりません。

  イエスは十字架の上で、自分を十字架につけたもののために祈りました。「父よ、彼らをゆるしてやってください」。
  よきサマリア人のたとえでは、ユダヤ人から、見下げられている、宗教的に違う、サマリア人が、ユダヤの祭司以上に、神の愛の実践をしています。またパウロは、律法を知らない異邦人に、良心の律法とその救いを述べています(ローマ2:14)。

  現代の神学者モルトマンは、それを次のように記します。

  「復活のキリストのご支配によって、私たちは自然の力の神化や脅威から解放されます。このような宇宙的キリスト論から、次の実践が出てきます。
  キリスト教会は、古代の多宗教の中の一つの宗教団体なのではなく、むしろ、すべてのものの創造者・救済者の平和を打ち立て、一つにまとめる交わり(共同体)なのです。新しい祭儀をこしらえるのでなく、新しい生を打ち出すのです。宗教的競争でなく、宇宙の平和と人類の和解を使命とします。
  その宣教するキリストは、ただ信仰者の主であるのでなく、自然の救済者としても期待されます。世界の教会化ではなく、キリストの宇宙的次元を視野に入れています。神は全被造物の神殿としてあがめられます。すべての教会は、そのために立てられています。
  キリスト教界は、壊れた病的な世界のただ中で健全な創造の救いの始まりに定められています」。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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