2月22日(日)「笑 い」説教要旨
詩編37:12-13 ルカ6:22

  「笑い」は、人間だけがすることです、動物は笑いません。聖書では、この「笑い」をどう見ているのでしょうか。
  私たちが笑うのは、大きく分ければ、
  • 1 喜びの時、うれしくて笑う 
  • 2 おかしい時笑う
  • 3 馬鹿にして笑う
などがあります。しかし、聖書には2はありません。3は神さまが人間の愚かさを見て笑う時しか出てきません。ただこれは2(おかしくて笑う)とも考えることができます。

  聖書は「笑い」を深く見ています。
「笑う時にも心に悲しみがあり、喜びの果てに憂いがある」(箴言14:13)、
  「あなたがた今泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」(ルカ6:22)、
  「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり踊るに時がある」(伝道の書3:4)

  つまりただ笑うだけではなく、その笑いにある悲しみや、笑いが悲しみに変わる変化をも説いています。  

  一方的に笑いだけというのはありません。「笑う時にも心に悲しみがあり」、もし心に悲しみをもたない、笑い一方だったら、それはおめでたい人と言われるでしょう。「笑うに時があり、悲しむに時があります」。逆に、悲しみにある人、それは喜びや笑いに変えられる時がきます。心配する必要はありません。「今泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」。しかし、その変化の時は、神さまのみが知っておられます。聖書では笑いも悲しみも、同時に見いだされます。

  今日のルカ福音書の少し前を見てごらんなさい。
「ツロとシドンの海岸地方からの大群衆が、教えを聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこに来ていた。そして汚れた霊になやまされている者たちもきやされた」(17-18節)。

  今イエスが立たれた場所は、世俗のちまたであり、悩み、疲れ、狂い、困惑しきった群衆のいる場所でありました。そこでイエスの語られたことは、「正義に生きよ」、「まじめであれ」、「正直であれ」と言った、律法学者のような倫理道徳的教えではありません。この世俗に欠けているもの、「真の祝福」を与えました。「幸いなるかな」と。

  しかし、イエスの道は、「幸福の道」といった、幸福宗教の幸福方法論ではありません。それは「皆さん、幸福になるには、どうしたらよいですか」ではありません。「幸なのは貧しい人びと」、「幸なのは、今、飢えている人びと」、「幸なのは、今、泣いている人びと」という呼びかけです。  

  どうしてそうなのでしょう? それは、詩編の言葉が示しています。
「主がシオンの繁栄を回復された時、われらは夢みる者のようであった。その時、われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた」。

  時は、バビロニア捕囚の時(BC586-537の50年間)です。原文を文字通りに訳せば、「一つの転換を転換する」となります。悲しい現実を、僭越にも自らの手で押し開けようとするのではありません。その希望は、シオンのために運命の転換をしてくださる神に根拠をもっています。人間は神に対して罪に陥っています。自分で自分の運命を切り開くことが、どんな時でもできると、信じきっています。
  しかし、自らそれを脱出することはできないと知って、初めて、神の救いの奇跡がはっきりと見えてくるのです。神のこの奇跡が実現する時、当事者たちは、「夢見る者のよう」です。悲しむ者たちの涙を喜びの笑いに変えるのは、神の奇しき力への驚嘆です。

  「今の教会は、この奇跡を信じることが少ない」。それゆえに力がないのです。私たちの見つめるのは、あのシーソーゲームの心棒です。高くなった時も、低くなった時も、あの真ん中にある心棒の位置は変わりません。心棒[神]が、高さも低さも支えているのです。
  それを忘れたなら、今イエスの言われる「あなたがた今泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」や、「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり踊るに時がある」という伝道の書の言葉が分かりません。
「神は全き人を捨てられない。また悪を行う者の手を支持されない。彼は笑いをもってあなたの口を満たし、喜びの声をもってあなたのくちびるを満たされる」(ヨブ記8:20-21)
とも言われています。その笑いは、神からくるのです。

   笑いについてもう一つ考えねばならないことがあります。それはユーモア、ゆとりのある笑いです。ユーモア、ゆとりとは何でしょう。その正反対は、「生真面目、面白くない、緊張している」です。
  ユーモアゆとりは人生の潤滑油として大切です。また
「なにゆえ、もろもろの国人は騒ぎたち、もろもろの民はむなしいことをたくらむのか。・・・天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」(詩編2:1-4)。

  この神さまが、人間の愚かさを笑うのは、神のゆとりの一例と見られます。またイエスのたとえには、ユーモアがあります。
  たとえば「放蕩息子のたとえ」、「不正の管理人のたとえ」(ルカ16:1-13)、その他、またカイザルに税金を納めるのはよいかと尋ねられた時、貨幣をださせて、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:13-17)と、イエースでもノーでもなく、ユーモアをもって答えました。

  ヨハネ福音書8章の姦淫を犯した女について、いきり立つ群衆に「あなたがたのうち、罪のない者が、先ずこの人を石で打ち殺すがよい」と、即答せず、イエス、ノーで答えず、ユーモアで答えています。

  神を信ずる人には、この余裕があります。すべて大丈夫だという信頼があるからです。
「あなたがたは立ち返って静にするなら救いを得、穏やかにしてより頼むならば力を得る」(イザヤ30:15)。

  ここには、神のユーモアがあります。静かなゆとりがあります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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