2月8日(日)「愛 の 歌」説教要旨
Ⅰコリント13:1-13

  パウロは信仰よりも愛の方が大きいと言っています。
「信仰と希望と愛と、この三つのうちで最も大いなるものは、愛である」(13節)
また愛は言葉よりも大きいのです。
「人びとの言葉や御使いの言葉よりもを語っても、もし愛がなければ、私はやかましい鐘や騒がしいラッパと同じである」
雄弁も愛には勝らないのです。
  ピカートは言っています、「愛の中には言葉よりも多くの沈黙がある。『黙って!あなたの言葉が聞こえるように」。「沈黙しあえるだけに愛しあっている友は幸福である」と。お母さんのお説教や忠告よりも、その黙って流す涙の大きさは計り知れないものがあります。

  さらに愛は知識に勝ります。「たといまた、私に預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また山を移すほどの信仰があっても、もし愛がなければ無に等しい」。あらゆる神学知識を山と積んでも、またイエスが「この山に向かって海に移れと言っても、心に信じて疑わなければその通りになる」と言われた(マルコ11:23)、あのすばらしい信仰も愛に勝るものではありません。愛は不思議なものです、小さな子も障害の子も愛は分かります。愛は国境を越えます。キルケゴールは「愛する人が外国人であっても、その人は必死で相手の国語を学ぶだろう」と言います。

  しかも愛は永遠です。どんな小さな愛でも永遠なのです。「愛はいつまでも絶えることがない」。
  どんな霊の賜物があっても、預言がどんなにすばらしくても、それは「人生の意味」にはならないでしょう。けれども愛は、人生究極の意味になります。もし愛を欠くなら、他のどんなにすばらしいことも、その意味を失います。ほんの小さな愛も、それは価値を失いません。神は愛であり、それが人生の意義だからです。愛はあなたの手元にあります。もちろん知識もあなたの手元にあります。しかし、知識には能力の差があります。相当な能力がなければ、高等数学や難しい哲学は理解できないでしょう。

  しかし、愛は違います。小さい子供でもできます。愚かな知識のない者も、愛することでは、学者より優れていることすらあります。そしてどんな小さな愛も永遠の意義があります。
「愛は寛容であり、情け深く、愛はねたまず、愛は高ぶりません。誇りません。 無作法をせず、自分のものを求めません。いらだちません。悪を言い立てません。不義を喜ばず、真理をともに喜びます。すべてを忍び、すべてのを信じ、すべてを望み、すべてを耐えます」
ここには肯定が二つ(寛容、情け深い)と、次いで否定が八つ(高ぶらず以下)あり、さらに(喜び以下)また肯定が続きます。愛は肯定の形でも、否定の形でも表すことができます。愛は喜ぶと言うこともできれば、愛は怒らずというように否定形でも言えます。 

  しかし、愛はただの親切とは違います。「すべてを忍び、すべてのを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」のです。
  しかもただちょっと我慢するのとも違います。我慢には、「我」という語があるように、もともと仏教の用語で、「我を頼んで心の高ぶる煩悩をいう」とあります。愛が耐えるのは、自分の忍耐力によってではありません。我慢力によってではありません。

  日本人は、とかく「頑張る」にしても、反対の「我慢」にしても、すべて自分が中心です。しかし、愛は望むゆえに、信じるゆえに、耐え得るのです。ここにここに否定の前にいつも肯定があるのを忘れてはなりません。「寛容であり、情け深く」は、否定の先にでてきます。「忍ぶ」の前に、「喜ぶ」があり、「耐える」の前に、「望む」がでてきます。 この肯定的な喜びがなくて、どうして耐えてゆけるでしょう。

  わたしたちの信仰の順序はいつも逆ではないでしょうか。絶望的な状況や罪がいつも先にあって、最後に十字架がきます。そして救われるというのです。しかし、それは逆です。その証拠に、またいやなことがあると、すぐもとの木阿弥になります。その時、十字架は吹き飛んでしまいます。そうではなく、イエス・キリストにあって喜びや望みが、すべての先にあります。それは、ただのあなたの心理的認識ではありません。むしろ存在的に、あなたは愛なるイエス・キリストのもとにあるのです。その喜び、信仰からすべてのことがくるのです。この順序を忘れてはなりません。

  また「すべてを信ずる」とは、おめでたく疑うことを知らないことではありません。
  パウロにとって、信仰とは、神の約束と真実のもとに生きることです。つまり愛においても、相手の絶望的な状況のなかに神の限りない外的、内的な助けを信じて生きることにほかなりません。愛が消えるように見えることはあります。少なくともわたしに愛がなくなり、消えてしまうことはしばしばあります。しかし、それは神からくるのです。

  それゆえ「預言はすたれ、異言はやみ」という事態、まさにそれは諸行無常という事態のなかにも、感謝していることができます。愛はいつまでも絶えることがないからです。それなのに、なおいやなことがあると、愛が消しとんでしまうのが人間の常です。しかし、決して忘れないでください。愛はキリストなのです。だからわたしたちは愛をいただいているのです。だから失望しないし、すべてを信ずるし自分の利益をもとめないのです。

  この愛はキリストだから、悪を考えず、すべてを望むのです。愛は希望のなかにあり、愛は望みを生かします。望みは愛のなかで生きます。愛と望みは手をつないでゆきます。愛は品物のように人にあげたから、もうなくなったということはありません。愛はいつまでも絶えることはありません。怒りは怒り続けると疲れてしまうでしょう。愛だけは不思議です。絶えるこおなく、疲れてしまうことなく、いつまでも続きます。愛は永遠です。それは愛が神から出たもので、神のものだからです。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.