1月11日(日)「永遠から始める」説教要旨
Ⅱコリント4:7-18

  私たちは仕事をするに当たって、手近かなところから始めます。そして困難に直面して挫折するでしょう。
  「私たちは、この宝を土の器の中に持っています」。
土の器だから、失敗するのです。けれども
「その計り知れない力は神のものであって、私たちから出たものでないことが、現れるためです。私たちは、四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても、滅びない。いつもイエスの死を身に負うている。それはまたイエスのいのちが、この身に現れるためである。こうして死は、私たちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである」
とあります。すばらしい言葉ですが最後の
  「死は私たちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く」
とは何の意味でしょう。 

  多くの親が子供をこよなく愛しながら、子育てに失敗しています。人に相談し自分を変えた結果、子供の問題は解決します。そこでは親自身が、「死ななくては、子供は生きないのです」。
  ここでは「自分に死ぬ」とは、親の自己流の愛に死ぬことを意味します。あなたが自分の生にとらわれているかぎり、それは多くの人の死になるどころか、あなた自身の死をきたらせるのです。友人関係でも、どんな人間関係でも同じです。大切なのは、生死の彼岸に立たれる神中心になることです。これが「永遠から始める」ということではないでしょうか。 

  今度は反対に、人が相談にくる時、私たちは多少誇らかな気持ちになるものです。しかし、その時、あなたは相談相手を助けることはできません。そこで大切なことは、今と同じ、あなたが死ぬことです。悩み事の相談を受けた時、あなた自身が、その悩み苦しみを身に受け、自分が担うものと考える時、あなたは死んで、その時、相手は生きるでしょう。
  たといあなたの愛が大きくても、愛する自分が小さくならない時は、それは一つの暴力であることを忘れてはなりません。「愛の暴力行為」もあるのです。「死とよみがえり」は、彼岸の国での経験となる前に、聖霊によって今ここでの経験とならねばなりません。これも「永遠から始める」ことではないでしょうか。


  次に「私は信じた、それゆえに語った」 とは何の意味でしょう。
私たちは激しい悩みの中で沈黙し、ぐうの音も出なくなることがあります。しかし、信仰が語る勇気を与えます。困難で苦しく、暗い時、誰も口をきかず、あたりは死の静けさが支配しています。その時、「信じた、それゆえに語った」という勇気がありますか。
  ドイツのある町で実際にあった話です。戦争で、町は荒廃し瓦礫の山。みんな意気阻喪して、誰一人立ち上がる者がいません。その時、一人の人が言い出しました、「そうだイエスはよみがえったのだ」。この一人の言葉が大合唱となり、人びとを鼓舞するのに、それほど時間はかかりませんでした。たちまちのうちに町は復興し始めました。

  神は、「信じて語る」、その一人を求めておられます。家が暗い時、まわりが沈滞してい時、あなたは「信じた、それゆえに語った」と言えるでしょうか。こうしてパウロは語ったのです。その時「恵みが、ますます多くの人に増し加えられ、感謝が満ちあふれて、神の栄光へと進みます」。このような時、死は死で終わりません。「信仰の死」には、いのちが続きます。
  日本人には、とかく「物言えば唇寒し秋の風」とか、「言わぬが花」とか、沈黙の言葉はあります。しかし、「信じた、それゆえに語った」とは言いません。自分に死んだ人は、勇気と信仰をもっえ語ります。これこそ「永遠から始める」ことではないでしょうか。


  最後に聖書は、こう言います、
「たとい私たちの外なる人が破れても、内なる人は、日に日に新しくなってゆきます。 しばらくの軽い苦難が、いや勝った永遠の重みのある栄光を、私たちに作り出します。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注いでいます。見えるものはしばらくで、見えないものは永遠に続くからです」。
  このことは、具体的な悩みの中での突破口です。なぜなら、イエスをよみがえらせた神は、ただ私の生のために、あなたが生きるために、イエスを死人の中からよみがえりらせたのですから、私をもよみがえらせてくださいます。それは葬儀の式辞のみでなく、今ここで生きる現実にほかなりません。
  私たちは、外なる人を「肉体」、内なる人を「心」とのみ考えてはなりません。もし信仰に立たなかったなら、心もまた外なる人です。なぜなら、心も病んだり、衰えたり、破れたりするからです。内なる人とは、神が造り出してくださる人間、創造者が造りだす新しい創造の力です。


  パウロは、この艱難を「しばらく」で「軽い」と言います。「しばらく」とは期限付の意味です。たとえば福引券をもらうとします、必ずそれには期限が付いています。期限内に行かなければ、それはもう無効です。艱難もそうです、永遠の艱難などというものはありません。時がくれば、艱難は終わりにきます。期限がくれば、その艱難は無効です。もはや私を悩ます力をもちません。
  またその艱難は「軽い」のです。私たちは、今の苦しみは、私には荷が勝ちすぎていて、私には「重い」と言いませんか。しかし、パウロは重いのは、かの日の栄光だと言います。 「しばらくの軽い苦難が、いや勝った永遠の重みのある栄光を、私たちに作り出します」。

  あなたは見ているものが違っていませんか。今の荷が重いと。しかし、目を転じて、永遠を見ましょう。そこには変化があるはずです。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注いでいます。見えるものはしばらくで、見えないものは永遠に続くからです」。
  現代は、見えるものが大きい時代です。物質の時代、科学技術の時代です。それは見えるものが主です。それはただ「見えないもの」が忘れられ、物質中心だから、「精神や心を」と言うのではありません。「永遠から始める」のです。そこでは、来るべきものが忘れられているのです。つまり神の国が忘れられいるのです、
  この来るべきものに目を開かれる時、私たちの現実が変えられてくるのではないでしょうか。たとえば、介護し、人の世話をする場合、単なる同情からすることもできますし、金を取る手段としもできます。しかし、それだけでなく、神の愛への応答としてすることができます。その時、その仕事は、「永遠から始める」ことにならないでしょうか。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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