12月30日(日)「すでに始まっている新創造」説教要旨
創世記1:1-5 ローマ4:17-18

  創造というと、私たちは天地万物の初め、神が無から世界を創造された、あの創世記の第1章、第2章を思い出します。
  しかし、今日、自然科学から問いが出されています。「世界は、創造によるものではない、進化してできたのである。単純なものから複雑なものへ、下等なものから高等なものへ進化した。決して神が7日で、創造したのではない」。こう言って攻撃してきます。
  しかし、聖書の創造論は、私たちの信仰の表現で、進化した現象を語っているのではなく、その進化の根源に何があるのかを語っているのです。
  進化論は時間のこと、この世のことを語っているとすれば、聖書の創造信仰は、永遠のこと、超越、根源を語っているのです。
  しかも創造には三つあります。 
  • 1 無からの創造(根源的創造、初めの創造) 
  • 2 継続的創造(歴史的創造、現在進行中の創造) 
  • 3 新しい創造(神の国で完成する創造、終末的創造)
1は過去の創造、2は現在の創造、3は将来の創造です。


  神さまは、創造にあたって人間を創造的につくられました。

  「救いとは、まさに人間が神ともう一度真の交わりを結ぶことによって、他の人間や世界と失われた関係をふたたび取り戻すことにほかならない。だから個人だけ、また選ばれた者だけが救われるということは、決してありえない。十字架によって象徴されているこの世の苦しみと悲劇とは、全人類と全世界が救われ、その本質が根本から改められ、生きとし生けるものすべてが生まれ変わらなければ、絶対に終わりに達しないであろう。私の救いは他の人たちの救いとかかわりあっているばかりか、動物・植物・鉱物、いや一枚の草の葉とさえもかかわりあっているのである。こうして宇宙のすべてのものが全面的に変容し、神の国のものとならなければ、私自身にも救いは訪れないであろう。しかも全宇宙のすべてがーそして私自身もまた、救われるか否かは、もっぱら、私の創造活動いかんにあるといっても過言ではない」(ベルジャーエフ) 

  つまり現在、継続的創造が行われています、進化論は、この継続的創造にかかわっています。
  聖書にアブラハムは「この神、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」(ローマ4:17)とあります。これは信仰義認を説明したものです。信仰義認とは、全く無にすぎない罪人が、義(有)とされることです。これは、神の初めの創造に当てはまります。無から有です。 しかし、継続的創造についても、言えることです。無→有。私たちはふつつこの世界は有→無だと思っています。
  しかし、継続的創造では違います。無いものから新しい有るものを生じなければ、自然的変異にしても、突然的変異にしてもありえません。そしてそこでは人間はただ受け身ではありません。環境、状況に働きかけます。そこではベルジャーエフが言うとおり、創造的活動が求められています。それはやはり無→有です。無数の細胞が、毎秒毎分死滅し、新しい細胞が生まれます。
  この無から有の運動があるから、人間は生きているのです。そこに神の創造の業が働いて、創造的に進化しているのです。したがって、継続的創造においては、創造と進化は決して矛盾しません。しかし、創造的ということは、信仰的なことで、まず希望をもって生きてゆくことにほかなりません。「希望をもつ喜ばしい時の血清は、そうでない血清よりも免疫力がはるかに高い」(フランクル)そうです。愛をもつ時、細胞が創造的に働きます。信仰と希望と愛です。駄目だと思うとき、細胞は創造的に働きません。

  そして信仰と希望と愛の根拠は私たちにとって何でしょう。それはクリスマスに生まれたイエス・キリストなのです。
  ではどうしてイエス・キリストは、私たちの信仰と希望と愛の根拠となるのでしょうか。彼が取税人、罪人たちを愛して、彼らの名をどこまでも求めたからです。迷う一匹の羊を求めるように、あくまでも求められたからです。しかも、十字架の絶望的状態の中で、同じく絶望的な犯罪人に、「今日、あなたは私といっしょにパラダイスにある」と言われたのです。
  アブラハムが、望むべくもあらぬ時、なお望んで信じた、それは先ほどの、アブラハムは「この神、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」ということに通じます。
  望みをもつとは、まわりが望ましい状態なら、何も信仰はいらないでしょう。しかし、全く絶望的な状況、そこでこそ、真の望み、希望が生きるのです。希望が生きるには、信仰と愛が必要です。あなたは、新しい年に希望をもっていますか。最後に「新しい創造」。それは神が新しい天、新しい地を造られる希望です。
  しかし、それはすでに始まっています。「人もしキリストにあらば、新に造られたものである。古きは過ぎ去り、見よ、すべては新しくなった」(Uコリント5:17)。このすでに始まっている「新しい創造」に目が開かれ、生き生きと希望をもって、愛に満ちて、信じて生きて行くとき、私たちはまわりに創造的に働きかけることができるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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