12月16日(日)「マリヤの祝福 」説教要旨
ルカ1:5-23

   この前は、老年の祝福と題して、ザカリアという、まじめで、信仰深いけれども、神の偉大な奇跡を信じることのできない老祭司のことを話しました。今日は、それとは打って変わって、女子青年、しかも自信のない田舎娘の話になります。しかし、そこで私たちは処女降誕、キリストの誕生という、すばらしい出来事に出会うのであります。ところが、この大事業をなしとげたマリアは、どういう人物か、聖書には何も記していないのです。たとえば、マリアは、頭の良い女性であるとか、性格はどうであるとか、家柄は何か、それは一切分かりません。聖書のメッセージにとって、人間の性格よりも、大事なことは「神があなたと共におられる(インマヌエル)」という事実です。そもそも、ナザレというのは、旧約聖書にも出てこない、救いの歴史から見れば、とるに足りない町だったのです。「ナザレから、なんの良いものが出てこようか」と言われました(ヨハネ1:46)。ナザレのあるガリラヤ地方も、「異邦人のガリラヤ」と言われ(イザヤ9:1)、イスラエルから見れば、北に片寄った国境沿いの町で、そこには、異邦人も多かったのでしょう。日本で言えば、だいぶ前の東北地方と言ったところでしょうか。神の御業にとっては、マリアが自信がないとか、ナザレが田舎の町とか、そいうことは問題ではありません。私たちの一番気になる人間の資質、性質、土地柄は、聖書の福音にとって、あまりたいしたことではないのです。心配しなくてよいことなのです。ここでも、まず出てくるのは、天使です、マリアではありません。「六か月目に、御使いガブリエルが、神から、ナザレという名のガリラヤの町の一処女のもとにつかわされました」。天使は神のメッセージを伝えるのです。

   そしてそこで御使いが語る言葉に注目しましょう、それは一言で言えば、「恵み」ということにつきます。「あなたは恵みを見いだしたのです」。恵みとは何でしょうか? 「主があなたと共におられる」ことです。全能の神が、罪深いマリアと共に。これがすべての先にあるのです。この第一のことが、第一になっていない時、私たちは自信のない女子青年マリアと同じように、ひどく胸騒ぎがし、戸惑いをおぼえるのです。人間には、自信のないネクラの人と自信過剰のネアカとあります。けれども、どちらも神の業を第一にしていない点、不信仰の代表なのですし。しかし、皆さん安心してください。クリスマスは、私たちを脅かし、当惑させる日ではありません。御使いは、この当惑しているマリアに言いました。「恐れるな、マリアよ」。あなたの自信のなさに当惑するな、恵みとは、そのままの姿で、神に受け入れていただけることだ、そのまま神に、すべてをゆだねなさい。あなたの中に、神の子が誕生したのです。ここには、第一の、神の子の誕生が記されています。しかし、その誕生は、第二、第三と続くはずです。パウロは言いました、「もはや私が生きているのではありません。キリストが、私の中に生きているのです」(ガラテヤ2:20)と。とすれば、第二に、パウロのおなかの中に、キリストが誕生したのです。霊なるイエス・キリストがです。洗礼を受ける人の中に、あまり教会にきたこともない人が洗礼を受ける場合があります。しかも、それはよい加減なことではないのです。立派に霊の洗礼を受けているのです。こういうことが、時たまあります。不思議ですね。「あなたはどこからキリストを知ったのですか」と聞くと、「聖霊」と彼女は言いました。「ああ処女降誕だ」、彼女と話して、そう私は思いました。しかし、間違ってはいけません。ここに第一の、真実の処女降誕がなければ、第二、第三のものはありえません。けれどもこの第一は、第二、第三を生み出してゆきます。「あなたは神のみもとに恵みを見いだしたのです」。あなたの胎内にあるものそれは、いと高き者の子、神の子にほかなりません。「聖霊があなたに臨み、いと高きお方の力が、あなたをおおうのです」。それ以外ではありません。クリスマスは、だれでも「キリストの誕生日だ」と言います。しかし、その答えには、聖霊が出てきません。「聖霊によって、おとめマリアから生まれた」、そのお方がイエス・キリストにほかなりません。

   皆さん、ここで起こっていることは、信じがたいことです。しかし、素晴らしいことです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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