12月2日(日)「待降節・待つ時間」説教要旨
伝道の書3:11 Tコリント13:8-13

  教会歴は、待降節から始まります。

  教会歴が「待つ」ことから始まるのは大切なことです。子供の出産は、待つことから始まります。「待つ」とは、行にんべんに寺と書き、そもそも宗教的なことです。待つことは、私たちが作ることではありません。それは向こう側から来るのです。しかも、その時を速めることはできません。赤ん坊の生まれるのも、時を待つでしょう。早産はよくないのです。その時は、神が決めてくださいます。
  ある信者が救われた出来事を振り返って、自分であせるよりも、「神さまの時が、一番よい時であった」と言いました。
「神のなされることは、皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられたが、それでもなお人は、神のなされる業を、初めから終わりまで見極めることはできない」(伝道の書3:11)。
  • 1 神のなさることには時がある。
  • 2 その時は美しい。
  • 3 人には永遠を思う心が与えれている。
  • 4 それでも神のみ心を初めから終わりまでみきわめることはできない。

  フランクルは、「ああ、そのことをもう少し早く知っていればよかった」と言った婦人に、「知ったその時が、一番よい時なのです」と答えました。神の時が美しいのです。その時は、神の永遠をかいま見る一時なのです。
  私たちは無神論者でも唯物論者でも、「永遠」を考えない訳には行きません。この宇宙は永遠なのか、どうか、物質は不滅なのかどうか。
  その永遠が「神」だと考えられないでしょうか。しかし、私たちはすべてを知っている訳ではありません。
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられたが、それでもなお人は、神のなされる業を、初めから終わりまで見極めることはできない」。
だから待たなくてはなりません。分からない、
  知らないことが起こるには、二つ意味があります。一つは、何が起こるか分からないから怖い、しかし、何が起こるか分からないゆえに、思いもはからぬすばらしいことが起こるのです。この二つは同時に起こることが多いです。クリスマスがそうです。天の栄光が現れた時、羊飼いたちは、「非常に恐れました」。しかし、天使は「おそるな」と言い、神の子の誕生を告げます。

  誰しもおぼろに感じる「永遠」が、「神」になるには、クリスマスを待たなくてはなりません。クリスマスとは神が人となる、マリアのおなかの中にはいるのですから、あなたのおなかの中にも入らなくてはなりません。
  キリスト者が生まれるのは、すべて処女降誕です。聖霊によって、おとめである私に、神の子が宿るのです。永遠が時間の中に宿るのです。永遠なる神が、時間であるあなたの中に宿るのです。
  待降節、それはその神の子の「降誕」を待つのです。すべてのことに時があるゆえに待つのです。待つのはもどかしく、いらいらします。けれども「待つ」とは、人間だけがもつ特殊な能力です。待てる人はすばらしいのです。

  しかも待つのは途中です、
  私たちは「途中」を何か「中途半端」だと思っていませんか。待つことの中にも、つまり途中にも、救いがあるのです。
「私はすでにそれを得たとか、すでに完全にな者になっているとか言うのはない。ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らられているからである」(ピリピ3:12)。
  そこには約束があります。「待つ」ところも、キリストに「捕らえられた」場所なのです。だから「私たちは、達しえたところにしたがって進むべきです」。
  「私の知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このようにいつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうち最も大いなるものは愛である」(Tコリント13:8-13)。
  つまり、永遠が時間となったとは、神の愛が私の中に生まれたことです。人生最大のものである愛が生まれたのです。まずベツレヘムに生まれたのです。馬小屋です、最もきたないところに生まれたのです。
  神の子が、どうして馬小屋に。最も小さいもの汚れた者を愛するためです。このような愛は世の中にありません。
  しかし、私たち信じています、この愛が勝利することを。キリストが最後にすべてをしめくくる神の国がくること、キリスト再来の時、それはこの愛が勝利する時です。神は、私たちに見通しのきかなかった永遠をきたらせ、それは愛で終わることを知らせます。
  今の世の中を見ると、とてもそんなこと信じられません。「愛が勝利するんですか?」しかし、「犠牲なるがゆえの勝利者」(アウグスチヌス)です。今の世にも真理です。「達しえたところにしたがって進む」 。私たちは進んでいるのです。確かに進んでいるのです。
  待降節の灯火が一つ一つついて行くように、待つことは前進します。途中もこの愛に捕らえられているのです。愛は必ず勝利します、いつの時代でも、どんな時でも。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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