11月11日(日)「求めよ、さらば与えられん」説教要旨
エレミヤ29:11-14 ルカ11:9-13

    「求めよ、さらば与えられん」 それはよく言われる「精神一到何事かならざらん」とは違います。「精神一到」とは、心を集中し熱心に努めれば、何でもできるという意味です。しかし、そこには人間のみあって、いや人間しかいない。自分しかいません。それは、そうした精神力ある人のみできる強い人の論理にほかなりません。
  しかし、「求めよ、さらば与えられん」には、そこに「名」をもった神がいます。生けるお方がいて、「さらば与えられん」と、言ってくださるのです。
  そこでエレミヤを見てください。「主は言われる。わたしが、あなたがたに対していだいている計画は、わたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈りを聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」とあります。
  エレミヤは、敗北の預言者でした。バビロニアと和解し、敗北を認めることを勧めました。これは捕囚の人びとにあてた、そのエレミヤの手紙なのです。紀元前六世紀、約五十年間のバビロニア捕囚という、究極的な困窮の中で苦しむ民に、希望を語ったのです。それは二千六百年後の今日でもそうでしょうか。いや、今日こそ、そうなのです。今日、多くの人が、世の中を見て「災いだ」と言っています。この災いに満ちた、現代こそそのことが真理なのです。

  その災いの中で、何ができましょう。「頑張って」は、一種の景気付けのみです。
  しかし、エレミヤの言葉は「あなたがたに対していだいている計画は、わたしが知っている」。それは自分でご自身の計画を知っている神が言われるのです。「それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。 

  皆さん、「求める」以上、私たちの側には「ない」のです。欠けているものです。それは劣等感、絶望のもととなるものです。しかし、そこに神の世界がある、厳然としてある。だから「求めよ」と言われるのです。「わたしはあなたがたの祈りを聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」。
  祈りには、この信頼と共に、約束があります。「精神一到何事かならざらん」には、この約束がないのです。だから信頼もないのです。祈りとは、生ける人格の約束なのです。だから信頼も生まれるのです。
  そこにお父さんがいる。父は子供がパンを求めるのに石を与えない。むしろ子供が石を求める時、パンを与えてくださる父がいますのです。

  次に、「探せ、そうすれば見いだす」 とあります。これは前の言葉の同語反復でありません。さらに口でなく、歩いて行って探すのです。捜し物は、そこにあるのだ、厳然としてある、しかし、どこにあるか今は分からない。だから探すのです。作り出すのではありません。「あなたが今、求めているものは、どこかにあるのです」。ないかも知れないというものではありません。ないものを探す人はいないでしょう。
  この比喩は、「すでにある」という確信です。今の私のもとにはありません。少なくとも見つかりません。しかし、必ず見つかるのです。あるのですから。神のもとにあるのですから。

  行くと、そこに門があります。それは閉まっています。しかも向こう側から鍵がかかっています。
  「叩け」。 それはこじあけるのではありません。開けるのは向こう側です。神さまの側です。私たちが努力して、こじあけるのではありません。そこでは人間の努力は、きわめて小さいのです。しかし、「叩く」努力はしなくてはなりません。
  この比喩は、向こう側とこちら側を表しております。門は閉じられています。閂は向こう側にあります。神の側です。しかし、こちら側があります。開くのは神です。しかし、叩くのは私たちです。「叩く」努力をしなくてはなりません。ただその時、神は大きいのです。

  「どうか私たちのうちに働く力によって、私たちが求めまた思うところの一切を、はるかに越えてかなえてくださることのできるお方に、教会によりまたキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように」(エペソ3:20)。三つ求めていたのに、五を与えてくださる。五つ求めていたのに、十を与えてくださる。それが祈りを聞きたもう神なのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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