11月4日(日)「罪のゆるし」説教要旨
マタイ18:21-34

  ナチズムの台頭する頃、バルトは、神学的にブルンナーに「否(ナイン)」を投げつけ、その後二人は交わりをしなくなりました。しかし、1966年ブルンナーが死の床にあった時、バルトはブルンナーに親しい友人に和解を頼みました。「否を投げつける時代は過ぎ去りました。今は大いなる憐れみの神が、私たちすべてに恵み深い『しかり』を言われることによって生きているのです」と。

  この手紙を受け取った友人は、急いで自転車でブルンナーの病院に駆けつけました。ブルンナーは衰弱していましたが、まだ意識ははっきりしていて、この手紙を伝えると、美しい、和やかな笑みを浮かべて静かに彼の手を握りました。その二、三分後、ブルンナーは息を引き取ったということです。

  私は年を取ると、すべての人と和解して、ゆるしあって神さまのもとへ行くことが大切だと考えます。
  放蕩息子の父親は、絶対的な愛とゆるしをもち、息子の懴悔の言葉を聞く前に、自分から出て行って、抱いて接吻します。十字架の上の祈りは、自分を十字架にかける者のために、「父よ彼らをゆるしたまえ、そのやっていることが分からないのですから」でした。

  今日のたとえのテーマもゆるしです。「ゆるしうる者をゆるす、それならどこに神の力がいるか、ゆるしえざる者をゆるす、そこから先は神のためだと知らぬか」(八木重吉)。ゆるしは自分のためでも、相手のためでもない、神のためだ。もちろん結果的には、それは私自身のためにもなり、相手のためにもなる。しかし、究極的には、私たちのために十字架にかかった神のためなのだ。そう考えれば、ゆるしに、自己中心がなくなります。それでこそゆるしなのです。

  

  「兄弟がわたしに罪を犯す」。これは異常なことでなく、日常的なことです。むしろ、私たちは見知らぬ者とは罪を犯すなどと騒ぎません。人間は自分が被害者になって、初めてぶたれることの痛さを知るのです。そして「罪をゆるす」ことの難しさを悟るのです。「自分が愛している」うちはだめで、むしろ、「愛されている」ことに気づくことが大切なのです。

  「愛する」という時、自分が中心です。しかし、「愛されている」時、神中心に変えられます。愛における、回心、ひっくりかえりです。「愛している時、人間は最も大きな罪人です」。そのことを知らせるためイエスは話しました。「私が」という盲点のゆえに見えない人間の罪の大きさと神のゆるしの大きさを教えたのです。

  一万タラントの負債、それは一人の人間が負うにはあまりにも多すぎる額です。タラントは今の目方でいうと、34キロぐらい。銀で何タラントと言い、金額を表します。今の貨幣に直せば何千万円にあたるでしょう。

  当時、ガリラヤとベレヤをあわせて税収入は二百タラントですから、一万タラントは想像を絶する額です。一人の人間に返済できる額ではありません。今、この額で、イエスは、私たちの罪の現実の底知れぬ深さを教えています。しかし、この僕は、その深さ、大きさを知らないで、「もう少しお待ちください。みんなお返しいたしますから」と言いました。

  私たちもいつも、言い訳をしている時は、そうなのではないでしょうか。「もう少しお待ちください」、私たちにできると思っているうちは、まだ親方気取りがぬけないのです。私たちに分かるのは、他人に貸した百デナリです。自分が損になる時、罪が分かるのです。しかし、それは他人の罪です。

  あなたの気づかない罪を分からせるため、主は十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてやってください」と祈りました。王さまが、借金を棒引きにしたのは、王さまが損したのです。私たちの王であるキリストは、十字架の上で損をし、重荷を負ったのです。

  しかし、この法外な恵みも、自分の本当の罪に気づかない者にとっては、心肝に徹していません。罪が分からないから、恵みも分かりません。恵みが分からないから、自分の罪に気づきません。こうして、このような人は、ひとをゆるせません。ところが仲間の者の罪(借金)を見て、「返せ」と言うのが、私たちの本当の罪です。貸したものを返せというのは、正当な要求ではありませんか。

  しかし、ここでは、「最高の正義は、最高の不正義」となります。自分が何十億もゆるされていながら、友達のわずかな借金を要求する、この正しさの中に宿る罪、それは無限に愛されているのに、この神の無限のゆるしの愛の中で、ひとを愛さない罪です。ゆるされている人間が、ゆるしえない罪です。十字架の上で、主があなたの罪をゆるしてくださいと祈られたのに、この十字架から離れ、神の愛に生きないで、この自分の正しさの中でとどまっている、そのことが罪なのです。ほかでもなく大きな罪なのです。

  今、私たちは、十字架の愛をどこかで失っていないでしょうか。しかし、神は、それをを回復しようと、失われた魂の重荷を十字架で負われました。十字架は、罪の自覚の基であると共に、愛の回復、魂の復権なのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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