10月28日(日)「信 仰 と 科 学」説教要旨


   T 自然科学とは何か
  • (1)まず対象である物質世界を実在のものと(前提として)認めます。→参考2
  • (2)そこに物と物との間に、数学で表しうる法則のあることを(前提として)認めます(自然法則)。
  • (3) その法則を、観察と実験を通して研究するのが自然科学です。
しかし、そこに少なくとも次のような問題があります。
     
  • 1 物と物との関係では、抽象と捨象が行われます(研究対象だけ取り出し、それ以外は捨てるから)。したがって自然科学は抽象的なものです。自然法則というものは、物に厳然と備わっているものでなく、主体が物に対して行う抽象と捨象の産物です。

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  • 2 たとえばかえでの紅葉と気候の関係をしらべるとします。紅葉が「赤い」と認めるけれども、色盲の人は、「青い」というかも知れません。トンボはどうでしょうか。馬、ぶた、犬はどう見るでしょうか。すると、色は目との関係で、いろいろに判断されます。近眼、老眼、斜視、乱視いろいろあり、「赤い」にも、人によってさまざまです。つまり観察といっても、主体との関係でいろいろであるにもかかわらず、科学が成り立つのは、90%の同意をえている近似値があるからではないでしょうか。つまり主体との相関関係の近似値です。

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  • 3 フリトリッヒ・ヴァイゼッカー(原子物理学者で、キリスト者)によれば『自然の歴史』ということがあります。ふつう自然は繰り返すが、歴史は繰り返さず一回的であると言われますが。ヴァイゼッカーは、自然も歴史も一回的であると主張します。前の実験と次の実験は違うのです。

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  • 4 自然科学の方法は実証主義で、多くの場合帰納法によります。しかし、「すべてのカラスは黒い」、本当にそうか、帰納法によって、ある種の全称肯定判断はできないことになっています。すると今のところ、「だいたいのカラスは黒い」としか言えません。ポッパーは、これを「真理らしさ」といいます。おおよそです。アインシュタインは相対性理論を真理とは認めまず、それは「仮説」として、今一般に認められているのです。

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  • 5 ニュートンの時代、自然科学は絶対で、自然法則は間違いないと言われました。そしてすべての自然法則を知れば、将来を予言できると決定論になりました。しかし、今日、それは崩れています。量子力学の世界では、位置と速度を同時に観察できないので、みなアバウト、蓋然性、確率になっています。しかし、ニュートン力学がある程度有効なのは、誤差が小さいからです。「不確定性の原理」と言われているものです。

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  • 6 ニュートンは絶対時間と言いましたが、アインシュタインの相対性理論で、時間は相対的とされました。
自然法則とは、ある条件の下、蓋然的に言えるものです。したがって、自然科学は、相対的なもの、そして「没価値(人間の主観的な価値観から自由で、客観的でなくてはならない)」的ですから、人間主体の問題(実存的課題、人の生き死にの問題)は入りません。→参考3  

   U 自然科学と信仰の関係  

  A ではどう考えるべきでしょうか。  

  (神の)現実があります。その現実を対象の方に収斂する時、物質とか自然が、つまり自然科学の対象ができ、逆に主体のほうに収斂する時、心ができます。
  しかし、心はまだ心理学の対象になりますが、さらにその背後に魂があり自己(意識)そして「名」があります。
  「魂」とか「名」は宗教の課題、信仰の問題です。イエスは九十九匹の羊を野において、一匹の迷う羊を求めました(九十九は科学の問題、一匹は宗教の問題、それが「名」です。その一匹は迷っているのです)。  

  本来、科学も名を問題にしなくてなりません。なぜなら、厳密に言えば、すべては個だからです。アダムは、動物に名を与えた。医者が人間を診る。次にペットの医者も同じ、植物にも名を与える。一草一木みな名がある、こうして科学者も、「名の命名」なしに真の科学になりえません。 
  これが忘れらているところに現代の問題があるのではないでしょうか。名を発見することは、科学の終極目的である。その時、科学は宗教と非常に近づく。   

  B 科学にできないことが、少なくとも三つあります。(まだいくらもありますが)。
     
  • 1 私たちはどこから来てどこへ行くのか
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  • 2 人生の意味は何か
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  • 3 偶然とか自由について 知ることです。
 この三つのうち初めの二つは、「超越」の問題です。科学は相対的なものですから、「超越」の問題にどうしても答えられません。そして自然法則で割り切れない「偶然・自由」の問題も手に負えません。どこからどこへの根源は、超越です。それを神と名づけようと、「畏敬すべき者」と言おうと自由です。
  また偶然・自由はあります。私は自由です、制限されていますが自由です。それはなにものにも犯されません。それは「名」をもっています。この私を来らせた超越(神)と私の名とは、どこかでつながっています。それが宗教です。参考4、5、6  

   V 心と脳

  脳のどこに心があるか、自意識はどこか分かりません。また脳だけで人間は存在できません。体中の器官が全部働いているのです。血管がなくて、神経系統なしで脳は働きません。目や耳なしで、記憶もできません。そこから自意識が生まれるのです。
  「唯脳論」(養老孟司)と正反対のことを、シュウオーツ『心が脳を変える』が言っています。利根川進博士は最後に唯心論といいました。神の現実があるのです。対象に収斂すれば、物(脳)になります。しかし、主体に収斂すれば、心になります。しかし、あるのは神の現実です。唯脳論では、自由の問題が解けません。主体、「私」の問題は解けません。ここで三位一体論が参考になります。「自己」−父、「身体」−子、「心」−聖霊は相互内在する。  

   W 進化論の問題、  

  進化論は、「どこからどこへ」の問題を解決できません。初めの存在はどこからきたのか、これからどこに向かって進化してゆくのか。
  ティヤール・ド・シャルダンは進化の目標「オメガ点」(再来のキリスト)としました。  

  創造的進化という考えがあります。初めの創造、歴史的創造(継続的創造)、新しい創造(終末、神の国)。それは「創発(Emergence)」という考えと関連します(モーガン『創発的進化』)。
  1.生物の発生、
  2.神経系をそなえた生物の発生、
  3.人間の出現など。
  先行の状態に基礎をおいているとしても、それから直接的に予測することができない飛躍が認められる。
  突然変異、「創造的進化」(ベルグソン)。「そこで創造が行われる場としての進化」、「創造は上からであって、下からではない」、「生命の飛躍は、あなたにとって、神性の発露」。
  「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」(伝道の書3:11)。    

   《参考》
  • 1 物理学者H・Pドゥルは『物理学と超越、今世紀の偉大な物理学者の奇跡的なものとの出会いについて』という意義深い題の本を出版しました。近代自然科学が、その自己相対化によって、絶対的なものを受け入れるようになったことが明らかにされました。それは物質と精神の不幸な二元論は克服されるべきであり、自然科学と超越は互いに排除し合わないことを証明するのです。「古典物理学から量子物理学へのマックス・プランク以来の大変革によれば、物理学と超越は、もはや拮抗するというのではなく、補足するという意味で、互いに向かい合っており、それらは互いに争っているのではなく、むしろ補完しているのである」。

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  • 2 ドゥルによると、自然の中には、厳密で普遍的な法則性は存在しておらず、それは決して最終的に分割可能な現実ではないーアトムの世界が示すように、万物は流転するのです。ドゥルはそれどころか極端なほどまでに主張する。「量子現象の首尾一貫した説明は、対象化されうる世界というものが、現実には全く存在しておらず、この世界は、単なる私たちの思惟の構築物である」という驚くべき結論に至った。

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  • 3 「あらゆるものは、最終的には合理的に説明されるはずなので、自然科学の発展の経過において、超越的なものは、次第に制限されてゆくだろうと推測されていたのであるが、それとは逆に、私たちにとって手で触れることのできる物質的世界というのは、ますます仮象であると判明したのである」。「したがって世界とはもはや、外部の影響を受けつけずに、厳密な自然法則によって精密に定められて進む機械仕掛けの時計の歯車ではない」。

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  • 4 ドゥルはさらに、自然科学は価値中立的であると考える。それで私たちが自然科学を扱うことができるために、自分たちの存在の深層から、…つまり、宗教から汲み取られる世界の価値観を必要とするのである。人間は実践できるために、科学的認識を超えた認識を必要としており、超越的なものによる導きを必要とする」。「このような一致」にも関わらず、宗教と自然科学の間には「区別」が存在していて、宗教には、神が直接、最初に与えられており、科学は神を間接的に推論する。宗教と自然科学という…この両者もまた、神の信仰を必要としており、神は宗教に対して始めに存在し、科学にとっては全ての思考の最後に存在する。それぞれ異なる思考の方法に対して、両者が人間に果たしているそれぞれ異なる役割が、対応している。人間は自然科学を認識のために必要とし、宗教を行為のために必要とするのである。

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  • 5 アルベルト・アインシュタインによってもまた、宗教と自然科学は補完しあう。アインシュタインは、プランクが認めていたと同様に、「自然科学はただ、何であるかを確定できるだけで、何であるべきかは、確定できない…」と考える。「宗教なき自然科学は、足萎えであり、自然科学なき宗教は盲目である」。

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  • 6 物理学者ジョーダンは偶発性から出発する。存在するのは原因のない出来事であり、世界の発展の中の自発性である。一つのラジウム原子はいつ崩壊するのか、次の瞬間なのか、一万年後なのかは予測できない。ただ一つの閉じられた因果性の自然発生だけが存在していて、自然は謂わばそれ自身だけで存在して、それ自らによって調整し、神的な創造者や、世界統治者の干渉を何も許容しないというのは、誤りであった。

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  • 7 「心を理解しようとする脳科学の場合。神経細胞の構造、シナプスのメカニズム、そして脳内化学物質といったミクロのピースはもとより、言語野、体性感覚野、運動野、視覚野など、マクロのピースもかなりそろっている。にもかかわらず、現代脳科学は、それらがどう連携し、最終的に私たち人間の情動や感情が、あるいは合理的推論や意志決定が、あるいは自己や意識が、どのようにもたらされるかといったことについて、矛盾のない包括的な理論をいまだに構築できない。理由は、百数十億の神経細胞からなる人間の脳はあまりにも複雑で、この複雑さのゆえ、謎は永遠に解明できそうにないと考える科学者もいる」(ダマシオ『生存する脳』)

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  • 8 「神経科学者でも、哲学者でも、神経の活動が主観的に感じ取れる精神的な状態をどのように生みだすかを、うまく説明できた者はいない」、「心の存在は(これまで分かっている限りでは)物質的な脳に依存するが、しかし、心は脳ではない。哲学者コリン・マッギンは言った『唯物論の問題は、いくらたし合わせても心になりえないものから心を組み立てようとすることだ』」(シュウオーツ『心が脳を変える』)。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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