10月21日(日)「信 仰 は 賭 け」説教要旨
Uコリント4:7-12


  「信仰は賭けである」(パスカル)。
  パスカルの説明は、いささか数学的すぎあまり使えません。それよりかキルケゴールが『哲学的断片』で、ソクラテスの知識論と信仰を比較して、「瞬間」とか、「飛躍」とか別な言葉で、同じことを言い表している方がよいと思います。
  ソクラテスの産婆術は、人間は生得的に真理をもっている、しかし、それは隠れて表に出ない、教師の務めは中にいる真理の赤ちゃんを取り上げる産婆の役だ。キルケゴールは、「ソクラテス的考察では、個々の人間自身が中心」で、真理を知ることが、そうなら「瞬間」は意味をもたない、しかし、キリスト教的出発点では、時間の中で瞬間が決定的意味をもっていると言っています。

  皆さん、自分が信仰をもった時のことを考えてみなさい。おなかの中の赤ちゃんを産婆さんに引き出してもらったのですか、それともある瞬間天から降ってきたのですか。
  「そこで生むことは神にのみなしうる」。

  「神の存在は、悟性によらない」。

  「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。
  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。
  このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」(Tコリント1:18)。
  また パウロは、「日々死す」と言っています。まさに「瞬間」です。
  「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。
  それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」(Uコリント4:7-12)。


  そこでこの信仰の賭けの事実を五つに分けて説明します。
  • 1 瞬間
     信仰の真理にはある時点がある。それは本を読んでいた時かもしれません。祈りの瞬間、礼拝に出ていた時、いろいろありますが、それはある時点です。そしてそれは長い思索の結果ではありません。ある瞬間、それも上からです。天のひらめきのように、真理が分かります。信仰とはそういうものです。

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  • 2 危機(躓き) 
    危機は、誰にでもやってきます。時間の中で、永遠なるものにふれる危機です。それは危険とは違います。危険は物質的、この世的なものです。しかし、危機は、神との出会いです。
      信仰は、また躓きとも言われます。なぜなら、自分を捨てなくてはならないからです。人間が神を知るのですから躓きがあります。しかし、「わたしはシオンに躓きの石、さまたげの岩をおく。これにより頼む者は辱められじ」(イザヤ28:16、8:14 ローマ9:33)。パウロは「十字架の躓き」(ガラテヤ5:11)とも言っています。
      キルケゴールは、それを「逆説(パラドクス)」とも呼んでいます。信仰とは普通の論理でありません。「罪の増すところ、恵みもいやます」(ローマ6:20)。「アブラハムは望み得ないところで、望みつつ信じた」(ローマ4:18)。「無から有を呼び出だす神」。
      そこでは反対のものが真理となります。その逆説は信仰の生きた体験です。


  • 3 
    そこで求められるのは「決断」です。ソクラテス的知識には、決断はいりません。それはある意味で賭けです。あなたは神に賭けるのです。全身全霊をこめて賭けるのです。 


  • 4 
    そこに「飛躍」があります。それは向こう側からくものです。「奇跡」といってもよいです。今の教会には「奇跡」がありません。「奇跡」の反対は、習慣、法則、成り行き、それに従うなら機械人間になるでしょう。私たちの人生には飛躍(奇跡)があります。奇跡とは、人間の知識で考えおよばないことが、成就することです。

  •   
  • 5 賭け 
    全部を賭ける時、全能の神が現れる、それが飛躍であり奇跡です。信仰は賭けであるとは、ばくちとは違います。ばくちとは利益とスリルを楽しむのです。信仰の賭けは、自分自身を賭けるのです。物に賭けるのでありません。神に賭けるのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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