10月14日(日)「広いところに」説教要旨
詩編31:6-16 Uコリント6:11-13

  「あなたはわたしの苦しみをかえりみ、わたしの悩みにみここころをとめ、わたしを敵の手にわたさず、わたしの足を広いところにたたせられたからです」(詩編31:7-8)。

  「あなたがたに向かってわたしたちの心は広くなっている。あなたがたはわたしたちに心を狭められたのではなく、自分で心を狭めたのである。」(Uコリント6:11-13) 

   私たちは毎日の生活で、時間については気を使い、たえず時間を気にしています。しかし、「空間」の方はどうでしょう。日常生活では、空間と言われても、ほとんど意識していません。
  すべての生には、それ特有の生活空間があります。蟻には蟻の、犬には犬の、人間でも、各人にそれぞれの生活空間があります。エコロジーの問題も、ある意味で空間の問題です。
  今日の聖書の詩編の方は、神のつくられる空間です。その時「わたしの悩みにみこころをとめ」、私を敵の手に渡さず、広い空間に立たせてくださるのです。神には広い空間があります。
  ヨブ記には、「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。神はまたあなたを悩みから、束縛のない広い所に誘い出された」とあります(ヨブ36:15-16)。
  「広い所」の反対は、「狭い所」、たとえば牢獄でしょう。また苦しみ、逆境をも表します。それに対してUコリントの方は、私たちの心の広さ、狭さを表しています。「パウロの心は狭い、あれでは心を広くして話すこともできない」という批判があったのです。パウロはそれは反対だ「彼らの心が狭くなって、広い心を受け入れなくなっているのだ」と言います。わたちたちにもよくそういうことがありませんか。相手に対する判断は、自分の心の鏡にほかなりません。あなたの心は広いですか、それとも狭いですか。時により狭くなりませんか。

   「狭さ」とは、他人がつくったものではなく、いつも自分で自分を狭くしているのです。
  確かに長い間、鎖国していた島国の日本では、人びとの心はいつの間にか狭くなっています。それは地理的条件で仕方がないというかも知れません。
  しかし、心の狭さは外的環境だけによりません。日本人の中にも山田長政など、海外に雄飛した人がいました。島国であることは決して不利な条件ではありません。まわりが海で囲まれていることは、どこからでも船にのって、八方に雄飛できます。 狭くしたのは、鎖国政策という、自分たちのとった態度です。
  個人でも同じです。狭くしているのは自分です。わたちたちの心の中に鎖国政策がないと言えるでしょうか。パウロは「あなたがたのための場所」と言っています。心の中に場所があるのです。心の空間です。この空間が狭い人もいます、広い人もいます。それは愛の大きさに比例します。
  そしてその空間は、「わたしとあなた」というように、対応しないとだめです。夫婦がハーモニーするように、「わたしとあなた」が調和するのです。人生でこのハーモニー、対応、相応が大切です。人と人はもちろん、民族と民族、また人と自然が調和しないと、とんだ争いや、自然破壊を生み出します。。 

  「あなたは牧師に何を期待するか」と問われた時、ある信徒は「そうだな大きさだね」と答えました。しかし、これはすべての教師、親に言われていることではないでしょうか。
  広い所に住んでいても、狭い心の持ち主もいます。反対に狭い所に住んでいても、広い心の人もいます。パウロはピリピの牢獄の中で、地震の時、賛美を歌い、祈っていました。牢番が自殺しょうとした時、それをとどめました。「自害してはいけない。私たちは一人残らずここにいる」と言いました。この広さに打たれて、牢番は家族ともども洗礼を受けました。ではその広い心はどこから得られるのでしょうか。神が立たせてくださるその場所に目を向けましょう。

  モルトマンの自叙伝は『広いところ』という題です。それはきっと彼がいろいろの事で、神の広さを経験したのではないでしょうか。
  チリの軍事政権で弾圧され、殉教の死をとげた神父さんの机の上には、モルトマンの著『十字架につけられた神』がありました。ニカラグアの教会指導者コルテスさんは、その神学が民の苦悩に力となったと言いました。何と「広い所」ではないでしょうか。全世界に宇宙にそれ以上に広がる広い神は、今、一人のニカラグアの泣き叫ぶ子供のところにあります。いと小さくなることもできるほど、神の心は広いのです。
  広さとは、小さくなることもできる心です。広い心をもつことはできなくても、一人に子供の心を覚え、その名を心に刻むことならできるでしょう。広い心とは、小さいものに目が留まる心です。広い心とは、ゆるすことができる心です。広い心とは、異質なものを受けれる心です。反対する者をも受けれる心です。それは要するにイエス・キリストの十字架の愛のみ心にほかなりません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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