9月23日(日)「二元と一元」説教要旨
イザヤ43:1-2 使徒行伝3:1-8

   皆さんは、二元論ですか、一元論ですか。たとえば、「信仰と行為」、「信仰と科学」、「信仰と政治」、いろ二元的に考えるのではないでしょうか。ルターは、「二王国説」を唱えました。一種の二元論です。教会は神の右の手で、国家は神の左の手であるというのです。もう少し詳しく言うと、[神の右の手ー福音・教会・信仰]/[神の左の手ー律法・国家・科学 等々]このような図式で考えました。これは後の「政教分離」という考え方の基礎となりました。
  ただ二つの関係が明確でないと、後のルター教会のように、教会は国家と違うから、政治にはかかわらないと言った保守的な政治態度が出てきて、ついにヒットラーの出てきた時、それに迎合したドイツ・キリスト者というものもありました。
  カルヴァンは、ルターの二王国説を受け入れましたが、キリスト論を中心とした、その関係をはっきりさせました。そのため、カルヴァンの流れを汲んだ改革教会では、比較的政治に妥協せず、むしろ政治を変える傾向が出てきました。
  もちろん、ルター教会の中にもドイツ・キリスト者に反対した人もいますし、改革教会の中にも、保守的な傾向はあります。しかし、二王国説は、魅力ある神学説です。右の手と左の手は、いずれも神の手ですから、本来は関係あるはずです。二元的に考えず、両者が、ごちゃまぜでは、混乱が起るからです。

  また私たちが、普通二元的に考えるのは、その他、「男と女」、「夫と妻」、「親と子」等人間関係があります。
  私は結婚当初、その違いが分かりませんでした。「違いと一致」、「相違と同等」が、そこになくてはなりません。これも二元の中の一元です。人間、人類という意味では同じですから。両者は愛で結ばれます。
  しかし、その場合知らなくてはならないのは、「愛と憎」の複雑な二元のからみあいです。愛というものは、憎しみと一体をなしています。人は愛している者を憎みます。愛してもいない、あかの他人を憎んだりはしません。無関心でいるだけです。私たちは何らかの関係の近い人をこそ憎むのではないでしょうか。嫁と姑と言われます。また親子の関係で、「エレクトラ・コンプレックス」ということが言われます。そこには愛がありますが、憎しみが生まれます。

  聖書では、父と子、それは愛において結ばれます。しかし、父(なる神)は子(イエス・キリスト)を十字架にかけます。
  ゲッセマネの祈りは、どうでしょう。十字架の上での祈り、「神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。父は子を捨てる、子は父の心が分からない。そして十字架につく。
  ところが、私たちの信仰には、三位一体というのがあります。父と子に聖霊がつくのです。父と子は、憎みあったのではありません。愛していたのです。しかし、それは私たち人間の憎しみ、愛情の中にある憎しみを救うために、父は子を捨て、子は十字架につくのです。
  そこには救いはないのか、そこにはもう一つのものがあります。聖霊です。聖霊こそ、この交わりを結ぶのです。二つの別れたものを結ぶのです。
  教会では「父の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊の交わり」というではありませんか。二元を一つにする三位一体の神であります。そのことがローマ書八章に記されています。「聖霊もまた弱い私たちを助けてくださる」、ここでは人間関係でなく、「人間と自然」が出てきます。しかし、聖書では、「自然」という言葉ではなく、むしろ、「被造物」という言葉を使います。「被造物」なら人間もその中に入ります。二元は一元になります。しかし、人間関係が愛と憎でできている、その複雑な二元、そこには聖霊がなくてはなりません。

  ヨブ記には、「神は一つの方法で語られ、また二つの方法で語られるのだが、人はそれを悟らないのだ」と言っています。
  神の方法は、決してひとつではありません。もう一つ別な方法があります。しかし、それにもかかわらず、神の方法は一つであります。父であり、子である、その二つに別れたものを結ぶのは、聖霊の役目です。ですから祝祷では、「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わり」と言うのです。私たちは、この聖霊の一つに結ぶ役割を忘れていませんか。父なる神があって、子であるイエス・キリストがあり、それは信じていても、聖霊がなければ、それはまだ完全な信仰ではありません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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