9月16日(日)「わたしはあなたの名を呼んだ」説教要旨
イザヤ43:1-2 使徒行伝3:1-8

   ナショナリズムとニヒリズムには、「名」がありません。名もなく貧しく死んだ人びとの名を覚えるのは、一匹の迷う羊を追い求めるイエスです。「死者と生者の主となるために、キリストは死んでよみがえられた」(ローマ14:9)。
  東洋と西洋、南と北、信仰者と不信仰者とを結ぶのは、「無」と「名」です。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、自分を無にして、僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有り様は人と異ならず、自分を低くして、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで従順であられた。このゆえに神は彼を高くあげすべての名に優る名を与えられた」(ピリピ2:5-9)、ここには、「無」と「名」がでてきます。しかし、その「無」はニヒリズムの虚無ではありません。自分を無にする、自己献身、愛の現れです。そのゆえに、「名」があります。東洋の思想には「無」はあっても「名」がありません。

  聖書の神には、その根底に名があります。私たちは「御名をあがめさせてください」と祈ります。祈りの最後に、「イエス・キリストの名によって」と祈ります。しかし、その意味があまり分からずにいます。
  今、使徒行伝ではペテロは、「金銀はわれになし、われにあるものを汝に与える、ナザレのイエス・キリストの名によって歩め」と言いました。
  私たちは、この「名」をそれほど大切に考えているでしょうか。それは省略してもよい飾りの言葉ぐらいに考えていないでしょうか。だから祈りに力がありません。イエス・キリストの名のあるところ、その御力もあるのです。神殿の門前で物を乞うていた足のきかない人が歩きだしたのです。「イエスの御名こそが、それを信じる信仰によって、あなたがたが見て知っているこの人を強くしたのです」。
  今、イエス・キリストの御名によって、立ち上がった人について、不思議に思っている民衆に向かって、ペテロは、こう言いました。ここには、このことをしたのは、自分の信仰や人間の力ではなく、「イエス御名」であるとはっきり語られています。
  わたしたちが、神を信じていると言っても、それはあまりにも漠としていませんか。というのは、イエスも神も信じているけれども、「イエスの名」を信じていないからであります。聖書には、何度も「御名」という言葉が出てまいります。その名のあるところに、神がいますという信仰にほかなりません。またその名のあるところに、イエスがいまし、生きて働きたもうのです。
  けれどもわたしたちは今日あまり名を信じません。なぜでしょうか。あまりに有名無実ということが多いからではないでしょうか。名を売る政治家、売名的な芸術家、肩書ばかりで実質のない学者、それどころかどの人間も、人間はみなそうですから、いつの間にか名とは実態のないもので、中身の乏しいものだと思っているのです。だから神もそうだぐらいに考えて暮らしている時、何か重大なものが欠けていはしませんか。その時、わたしたちは信仰といっても、漠としたもので、神の全能の前に立っていません、御自身を十字架に捧げて血を流しておられる、その主の前に立っていません。
  神において、「名は体を現す」ことを忘れてはなりません。ちょうど通行人や、電車のなかの雑踏では、すべての人が名無しの人間にすぎません。しかし、今、その雑踏の中で、知った人に出会って、「誰だれさん」と呼びかける時、もはやその名は、形式ではなく、大衆の雑踏の中から、一人の人を選びだし、彼ととわたしは無名ではなく、互いによく知り合った仲で、深い交わりもそこから生まれ、そこに一つの出来事が起こるのです。
  神においても、わたしたちの信仰では、まるで雑踏の中の神のようではありませんか。漠とした抽象的な永遠者、創造者などではないでしょうか。

  イエス・キリストは、第一に「願わくは御名をあがめさせたまえ」と祈るよう、わたしたちにご命じになりました。名と事を一つにすることから、信仰の改革は始まります。神は、私たちの、否、この私の名を呼んでくださいます。
  「イスラエルよ、あなったを造られた主はいまこう言われる。『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共にいる。川の中を過ぎる時、水はあなたの上にあふれることはない。あなたが火の中を行く時、焼かれることもなく、炎もあなたに燃え付くことがない』」と言われています。それが名の意味です。
  最後に私たち相互が「名」で呼ばれなくてはなりません。私の知っている田舎で、おじいちゃんが、今、死なんとする孫の名を呼んだ。そしたら目を閉じかけた孫が生き返ったことがあります。聖書では名は力です。御名を呼ぶ、「イエス・キリストの名によって歩め」。そして初めて、「御名をあがめさせたまえ」の、主の祈りの第一祷に深い意味と力が加わるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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