9月9日(日)「余りあり」説教要旨
ローマ5:17-21 8:34-39

  「律法が入り込んだのは、罪が増し加わるためである。しかし、罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)。
  「しかし、私たちを愛してくださったかたによって、私たちは、これらすべての事において勝ちえてあまりある」(ローマ8:35-37)。


  「余り」がある。これは「恵みの剰余、恵みの余り」です。
  ただこれら二つの箇所で、必ず「罪も増し加わる」、艱難、苦悩が押し迫り、増し加わるとあります。
  この「罪も増し加わる」、艱難、苦悩が押し迫るのは、実に今日の状況ではないでしょうか。超強大な嵐、ハリケーン、地震の多発、人間の極端な想像を絶する罪、殺人、大臣が次々次ぎ悪いことをして糾弾されて、やめる。警察官の犯罪、私たちは、今、現在、罪と死が支配している姿を見ます。きわめて現実的に目の当たりにしています。しかし、それと同時に、その場所に、それ以上に、「恵みといのち」が支配するというのです。  

  「一人の人によって罪がこの世に入った」とは、アダムが「善悪を知る木」の実を食べたことです。その木は、園の中央にあります。
  つまり罪とは、自分が世界の中央に立つことです。別な言葉で言い表せば、「自己中心、エゴイズム」です。しかもその木は「善悪を知る木」です。「善悪を知る」とは、「倫理・道徳」です。
  つまり、良いこと、それが自己中心になる時、最悪となるのです。自分が「良い」と思うことが、善で、自分が悪いと思うことが悪なら、どうでしょう。自分自身が神さまになるのではないでしょうか。「地獄への道は、善意で舗装されている」(ウエスレー)、私たちの争い、それは悪と悪の争いであるよりは、善と善の争いです。  

  ところが「このアダムは、来るべき者の型である」。「来るべき者」、それはキリストです。どうしてあの罪を犯した最初の人アダムとキリストが似ているのでしょう。
  「しかし、恵みの賜物は、罪科の場合と異なっている。もし一人の罪科のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、さらに豊に多くの人びとに満ちあふれるはずではないか」とあります。
  ではアダムとキリストの似ている点はどこか。「一人がすべての人に」という点が似ています。けれども、全く違います、片方は「死」であり、もう一方は「恵み」です。
  その際、善と悪が対照するように、罪・死と恵みといのちが対照するのではありません。悪があっても善で帳消しになるという数学ではありません。恵みは「余りあり」、計算を越えているのです。質的に違っているのです。今、神の恵みという質的に違ったものが現れるのです。
  聖書が語るところは、道徳観、正義観と違います。親や教師は、いつもこの人間の正義観、道徳観によっています。「勉強しなさい」、「これをしてはいけません」。しかし、人間の正義観よりも、神の聖霊の恵みに信頼しななければなりません。  

  「律法が入り込んでくると、罪が増す」とあります。罪がなくなるどころか、道徳や律法が入ると、「罪は増す」ことさえあるのです。
  多くの教師は、罪を消し、善を増やすことに腐心しています。毒麦のたとえをごらんなさい。「毒麦を取り除きましょうか」という僕の言葉に、主人は「いけない、毒麦を抜こうとして、良い麦も抜いてしまうかもしれない。収穫までそのままにしておきなさい。その時が来ると、収穫の主が、すべてを良くしてくださる」というのです。人間の正義観よりも、神の恵みに信頼しなさいという意味です。
  皆さん、人間の道徳観、正義観とは何と弱くもろいものでしょう。放蕩息子の父親は説教を一回もしていません。放蕩した息子の悔い改めの言葉を聞く前に、自分から出てきて、抱いて接吻し、大宴会をもよおします。そのことにすねた兄息子のところにも出てきて、「喜び祝うのはあたりまえだ」と言います。
  聖書では道徳よりも一人の魂が大切です。信仰は潔癖症ではありません。恵みが、圧倒的に勝利するのです。恵みの剰余価値です。 「私たちを愛してくださったかたによって、私たちは、これらすべての事において勝ちえてあまりある」。この「余り」こそ恵みです。   

  イギリスで産業革命の後、道徳が退廃した時、ウエスレーは、聖霊を受け、多くの労働者に説教しました。国教会から締め出され、広場で、道端で路傍伝道しました。
  ある時、反対者がナイフをつきつけました。しかし、聖霊に満ち、静かに語りました、八十八歳で召されるまで32万キロ歩き、四万回説教しました。道徳の教えではありません。神の聖霊の恵みの説きあかしです。
  弟チャールスは賛美歌を作りました、98番、273番みな全く神の恵みの勝利の歌です。道徳的説教ではありません。イギリスは産業革命の中で、流血の革命をみませんでした。キリストの御霊が働く時、驚くべきことが、恵みの剰余が「あの余り」が出てきます。「余り」を信じましょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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