9月2日(日)「中心の神、前方の神」説教要旨
出エジプト13:20-22 黙示録1:8

  私たちは「神」という時、まず第一に「上」を考えます。「天にましますわれらの父よ」と呼びます。私は上なる神に打たれたことがあります。その前に私は小さな存在で、すべてはこの方によると感じました。
  絶大なる信頼、神の栄光です。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8-10)と。
  しかし、神は「内」でもありませんか。聖霊は私の内に働く神です。パウロは、「もはやわれ生きるにあらず、キリストわが内にありて生きるなり」(ガラテヤ2:20)と言いました。もしそれが私たちの内なる神でなければ、すべては抽象的です。「キリストが千回ベツレヘムに生まれても、あなたの中に生まれなければ、それが何になりましょう」。
  しかし、反対の言葉もあります。「たといキリストが千回わたしの中に生まれても、もしベツレヘムに生まれなければ、それが何になろう」、それは後ろの神です。二千年前に事実生まれ、十字架を負われる、この歴史的事実がなければ、たとい私の内にキリストがいても、何になるでしょう。神は、「後ろ」です。
  これで「上」・「内」・「後ろ」三つが出揃いました。しかし、イスラエルにとって神は「前方」の神でした。出エジプトの記事には、神は「昼は雲の柱、夜は火の柱」となって彼らを導いたとあります。黙示録には「昔いまし、今いまし、やがて来るお方」とあります(黙示録1:8、4:8)。「昔、今、これからいます」言うべきところ、将来のことだけ、時間の動詞が、「来る」に変わっています。「やがています」でなく、「やがて来る」お方です。つまり、来るべき、将来の前方の神が特別にされています。

  ここに時が、イエス・キリストをめぐって、進みます。「昔」→「今」→「やがて来る」と。詩編31編に「わたしの時は、あなたの御手にあります」と言われます。
  ここでは、決して一般に時間というものが、神さまのものだと、言っているのではありません。それは「わたしの時は」です。病気が、戦争が、失業が、失敗がある、この「わたしの時」です。「あなたの御手」とは、「神の御手」です。それは、イエス・キリストの暖かい御手です。あの病人に手をおかれた、その暖かい御手です。時は、過去・現在・将来とあります。それが「昔いまし、今いまし、やがて来るお方」の御手にあります。
  それがわたしたちの「希望の神学」です。それで「わたしの時は、あなたの御手にあります」とは、わたしの将来が、「イエス・キリストの御手にある」ことではないでしょうか。「すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ」(詩編31:24)。
  それで「わたしに将来はない」と言ってはなりません。「主よ、わたしはあなたに信頼して、言います。『あなたはわたしの神である』と。わたしの時はあなたの御手にあります」。わたしたちは、神の御手から、いつでも、必要なものをいただくことができるのです。
  しかし、その神は、ほかでもなく「中心の神」でないでしょうか。
  「悔い改めとは、私たちが常に見落としている、最も近くにあるものへの立ち返り、私たちが常に会いえない生の中心への立ち返り、私たちにとって常にあまりにも高く、あまりにも困難な、最も単純なものへの立ち返りであります。神は、私たちの最も近くにいますものであり、神は、私たちの中心でさえあります。したがって神は、最も単純なものでありたもう。神がいらしゃる、このことは、ほかのすべてのことの方が、私たちに自然に思われるほどに、自然で、単純で、自明なことです。・・私たちは、自分の生が神にあって、自然で明瞭で重要なものになるために、立ち返らなければなりません」。
  これが中心の神であります。あなたこの最も近い神を忘れていたのではないでしょうか。

  こうして私たちは、歌います。

  「主よ、あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。

  わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。

  『やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ』とわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません」(詩編139編)。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.