8月26日(日)「自ら自由を制限するほど自由な神」説教要旨
ピリピ2:6-11 創世記1:1

  神は、私たちを救うために、ご自分を無にし、人となり十字架で死にました(神の自己謙虚、ピリピ2:6-11)。しかし、それは天地創造にまで広げられます。神の世界創造も神の自己謙虚でないでしょうか。ルターの賛美歌に、「彼はご自分のすべての力を捨て、低く、小さくなられ、自ら僕のかたちを取られる、すべてのものの創造者よ」とあります。神ではない世界の創造者として、神がご自分を定められたことの中に、すでに神の自己謙虚が認められます。神が、自ら身を引いて、被造世界を造られた自己制限は、恵みの第一の行為です。それは私たちを愛する神の愛の行為にほかなりません。それは「親」というの字が、「木のそばで立って見ている」からなるように、真に子供を愛する親や教師は干渉しないで、自分と別な人格として尊重し愛するのと似ています。神は、神ではない世界を創造するため、ご自分から出て行く前に、そのための場所をつくるために、ご自身、身を引いたのです(チムツム神の自己撤退)。神は、ご自分から創造者として出て行くために、自己にちじまる、その時、神の創造的力は、ご自身の自己収縮に集められます。それと並んで自然科学的に、拡張する宇宙が発生する「原初の躍動」を説明するため「ビッグバン」の解釈が、「チムツム」と並行しています。。

  信仰と科学は、アメリカの原理主義者のように、否定的に挑戦的に考える人。両者を並行的に、相互不干渉と考える人(バルトやブルトマン)があります。また両者を対話的に考える人もいます。しかし、今日、科学の方から対話を求められているのです。神学的創造論は、決して物理的宇宙論に競合する宗教的宇宙論ではありません。むしろ、神学的創造論は、物理的宇宙論と両立しなければなりません。神経験の神学的叙述は、自然経験の自然科学的叙述とは異なるものです。片方は信仰であり、もう一方の自然科学的世界観は、相対的な観察的宇宙観にほかなりません。両者は全く違っています。しかし、私たちは科学的見方を完全に否定して生きることはできません。もし両者を対話にもたらすなら、その時、次のことが明かになるでしょう。神学者は、その歴史が一回的で繰り返さないと言う、科学的な「大いなる物語」に特別な関心をもっています。 自然科学者が、それほど気にとめない自然現象である「偶然性(偶発性)」に、特別な関心をもっています。私たちは、人間の生や個人の歴史の中で、善きにつけ悪しきにつけ私たちの計画をさまたげる、予測もつかない偶然の出来事について知っています。ニュートンの力学の時代、すべては自然法則でできていると考えられ、決定論になりました。しかし、現代では「不確定性の原理」が唱えられています。ハバーマスは、まさにこの「偶然の克服」の中に宗教の機能を見ています。それで私たちは「自然の神学」についてコスモス(宇宙)の過去や現在から推定することのできない、自然の歴史の中で将来を告げる、あの偶然の出来事の中での、神の現臨を問題にするのです。

  「世の初めからほふられている神の小羊」(黙示録一三・八)とは、世界が創造される前に、また、キリストがゴルゴタで十字架につけられる前に、神の心の中に十字架が用意されていたことに対する表現です。神の自己謙虚と自己疎外とは、創造から和解を経て、救済に至るまで深められ展開されて行くのです。創造は神の愛から来、そしてこの愛は、すべてのものの固有の存在と人間の被造的自由を尊重されるからです。愛する存在に空間を与え、時間を明け、自由を期待する愛は、自己撤退できる愛する者(神)の力です。それは愛される者を育て、参加させるためにほかなりません。それゆえ、ただ単に自己献身だけでなく自己制限もまた、ただ単に好意だけでなく他者の固有性への尊重もまた、創造者の愛に属するのです。私たちが、この認識を創造者とその被造物との関係に適用するなら、その時、そこから、被造物の生の空間のために、神性の全能、遍在、全知を制限することが出てくるのです。神は、自然科学が自由に働く空間を残されたのです。また私たちが人格をもって自由に動く自由を残されたのです。神の全能は、その愛の全能です。「愛は忍耐深く、すべてのことを忍び、すべてのことを信じ、すべてのことを望み、すべてのことを耐える」(Tコリント13:4)。神はその忍耐の力によって、矛盾に満ちた世界を支えておられます。それは、あの絶望して三階から飛び降りた女子高校生にも当てはまります。彼女たちが、「生きる意味もない、死ぬ理由もない」といって死んで行った世界、それは虚無の世界にほかなりません。しかし、その虚無の世界は、愛なる神が、私たちに自由裁量できるように与えた無の空間であることを知ったならどうでしょう。その無は、虚無ではなく、神の愛の空間なのです。神は自ら自由を制限するほど、自由になられたのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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