8月5日(日)「まだ終わりではない」説教要旨
イザヤ26:7-13 マルコ13:3-13

  近ごろ一般の人が、世の終わりを語るようになりました(世俗的終末観)。
  マルコ福音書には、「戦争と戦争のうわさ」、「あちこちに地震があり」、「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させる。飢饉が起こるであろう」とまるで現代のことを言っているようです。
  現象は似ていますが、世俗的終末観には、希望がありません。イエスは「それらは起こらねばならないが、まだ終わりではない」、「これらは、産みの苦しみの初めである」と言いました。イザヤ書には、「主よ、あなたがさばきをなさる道で、われわれはあなたを待ち望む」、「わが魂は、夜あなたを慕い、わが内なる霊は、せつにあなたを求める」(イザヤ26:7-11)とあります。
  これまでも困難の時代、「今はすえの世である」と言い、ヨーロッパでペストがはやり、人口の五分の一が病死した時代、黙示録が読まれ、皆、終末だと考えました。しかし、世界は続いています。

   今日、キリスト教的希望と、現実の終末的末の世の現象とは結びつかないように見えます。 しかし、イエスと交わる者は、つねにこの二つを同時に学びます。「神の国は近づいた」という希望の祝福と、愛の痛みに満ちた苦しみ、崩壊させられている被造物との連帯の二つです。
  
「私たちは聖書を読んでいます、また毎日、新聞を読んでいます。聖書を読む時、神の約束の歴史に預かりたいと願う。新聞を読む時、私たちの世界の運命にかかわってくる。しかし、神の希望との交わりと地球の苦悩との交わりと、この両方をいかしたらいっしょにできるのでしょうか」。

  弟子たちは、この二つを一つにしています。彼らはこのようなイエスの将来に飢えかわき、見捨てられ、いやしめられた、悲惨な被造物や罪人・取税人・病人に対する、限りない神の愛をイエスによって経験しました。そしてイエスと共に愛の苦しみを身に引き受けたのです。それはこの時代の苦しみ、全世界にゆきわたった苦しみでもあります。
  愛する者は苦しみ始めます。彼にとって他人の苦しみは耐え難いものとなり、それゆえ、愛は「世界の終わり」を、すなわち困窮・苦しみの終わりを飢えかわきます。イエスと交わる者は、二つを同時に学ぶのです。 
  「しかし、まだ終わりではない」。悪が良い行為を滅ぼし、死者が死んでいるかぎり、まだ「大変良い」ではありません。終わりはまだ来ていない。それゆえ、キリストのところには、神の偉大な世界を希望する愚か者のみが残ります。「あなたがたはあわててはいけない」。諦観(あきらめ)の種を宿し、あなたがたをついには、悲観に導くものにかかわりあうな。死の衝動に抵抗せよ。
  技術支配的思考が、将来を固定させ、現在の権力関係に固定させ、「もっと生産を増やすこと、もっと消費を増やすこと」。これが今日の技術支配の偶像神、金の子牛です。「まどわされないように気をつけなさい」。フランシス・フクヤマは、『歴史の終わり』という本を書きました。 しかし、「まだ終わりではない」「人が愛している一切のものが、取り去られるであろう。政治的にせよ、社会的にせよ、秩序といったものには、堅い基盤が存在しない。いかなるものも信頼がおけない。その地盤はゆらぐ。私たちはこの間の戦争をを経験したから、今さらそれを描いて見せる必要もないでしょう。しかし、その時、いかほど多くの者が、さじを投げ、絶望し、終わりなき恐れの中で、恐れをともなった終わりを、すなわち死を願ったことか、私たちは知っています」。ところが今、それについてこう言われる。「それはまだ終わりではない。やっと産みの苦しみの初めである」。
  ここにイエスの勧告があるのです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるであろう」と。つまり、ここに一つの道がある。それは最後まで、キリストの御国が来るまで、イエスとその御言葉にとどまり続けることです。「とどまり続ける」とは、精神的なものへ、心の世界へと逃げることではありません。愛にとどまり続けることです。不信がまるで霧のように、すべての人間関係の上に横たわっています。しかし、希望の中にとどまるとは、愛の中にとどまることです。私たちはキリストを望むゆえに、あらゆる幻滅にも、冷酷になりません。私たちは、どんな時代にも、虐げられた者に対するキリストの愛にとどまり続けます。そのような人は、全く冷たい世界の中に友情をもたらし、私たちが互いに交際しながらも、真の出会いを経験しない悪しき世界の中でも、「真の人間」を見ようとし、相手に先だって、信頼の前払いをするから、それは、愛の愚か者です。キリスト教的希望は、人びとの苦しみを身に引き受け、義の御国を待ち望む愛の希望にほかなりません。終局的世界の中でこそ、信仰者は、イエス・キリストを宣べ伝え、愛の実践に生きるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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