7月29日(日)「いと小さき者の神」説教要旨
創世記2:1-3 マルコ2:23-28

  障害のお子さんをもつ母親が「これらの最も小さな者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25:40)との御言葉で救われました。彼女はその後「手をつなぐ親の会」の会長として、多くの障害児をもつ親たちを助け励ましました。
  私自身、牧師になり北海道で、一人の障害のお子さんの里親になりましたが、非常な努力の後、うまく行かず、苦しみ、牧師をやめようかとさえ思いました。けれども自分が大失敗と思っていたことが、決して失敗でないことが、その後分かりました。私が北海道に行くと、かっての信者さんが皆集まって来、「先生があの一人の子にした姿が、焼き付くように離れない」と言います。
  聖書にこうあります。「イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。『恐れるな、私はあなたをあがなった、私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ」(イザヤ43:1)。
  神は天にひとり、その神はひとりの人を大切になさいます。イエス・キリストも弟子たちはみな逃げただ一人で十字架の上で死にました。しかし、そこに一人の弟子ができました。それは同じ十字架につけられた犯罪人の一人です。「あなたは今日、私といっしょにパラダイスにいる」とイエスは、彼に言われました。
 神は名をもつ、そして私たちの名を呼ぶ、私たちも互いの名を呼ばなくてなりません。ここに人権の基礎があります。名の信仰、名の神学であります。九十九匹を野において、一匹を求める、コンピューターからすれば、九十九匹も一匹からなると言います。しかし、イエスは、その迷う一匹をどこまでも追い求めます。

  今から三十五、六年前、仙台で筋ジストロフィーの人びとに聖書の話をしましたが、話の後、沈黙が続きました。一人が「もし神が愛ならば、どうして俺たちのような者を造ったのか」と問いました。この問いを胸にしつつ、マルコ福音書を、そしてピリピ書を話して行きました。
  二、三年するちに、一人二人と洗礼を受けてゆきました。その一人が青年修養会で「私はこの病気を神の賜物と信じます」と証しするまでになるには、多くの祈りと奉仕が続いた後でした。彼らは自立ホームを作り、そこに自殺志願の人が、医者に勧められて来ました。その人は死ぬのはやめ、こう言いました、「ここの人たちが、明日もしれないいのちを精一杯生きているのを見て、生命の尊さを教えられた」と。彼らは言います、「それでは私たちの方が先生だ、彼にいのちの尊さを教えたのだから」と。
  実は彼らは、ついにホスピスを作ったのです、その大広間には十字架がつけてありました。国や県から補助金おもらって建てたものには、宗教的なものはいけないのですが、彼らそれこそ自分たちのいのちだと、頑張りました。
  十字架とは何でしょうか。それは第一に「愛」です。神の子イエスが、「父よ、彼らをゆるしてやってください、そのやっていることが、分からないのですから」と祈られたように、ゆるしの愛であります。
  しかし、それはまた「苦しみ」でもあります。苦しみと共にある愛、愛と共にある苦しみです。十字架、その縦の棒は苦しみを表します、その苦悩は、それほど深いのです。その横の棒は愛を表します。その愛は、それほど広いのです。「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛と憐れみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:9)。

  自立ホームを建てた責任者山田君は、筋ジストロフィーで最後の段階に入っています。彼は「自立」という毎月でる冊子にこう書いています。

  「私を生かし続けてきた人工呼吸器も、先日三台目となった。これを使い始めた頃は、眠ることが恐かった。就寝中は呼吸回数が減り、筋力がなく呼吸の浅い私たちにとって、それは息をしていない時間が増えることを意味する。
  息苦しくて汗びっしょりになって目覚め、あえぎながらなっとの思いで何度も浅い呼吸をする。眠ってしまったら再び目覚めることがないような恐怖・・・。鼻を覆うマスクを通して定期的に空気が送られてくる。まるで器械にあわせて呼吸をするようで、こんなものに慣れるのかと訝しかった。
  ところが使い始めるや、息苦しさから解放された。もし息苦しさの中であえいでいた兄たちや病友たちにこの器械があったなら、もっと長生きできただろう。最初は一日一時間だった使用時間も進行に比例して増え、今では手放せなくなった。
  けれど私は生かされている。壁にかけられた十字架を見上げる。これは動くことはないが、私の心に休むことなく語りかけ、感謝の気持ちと安らぎを与えてくれる。すべてに感謝」。

  十字架の主は、この最も小さい者の一人を見捨てません。「あなたを造られた主は今、こう言われる。『恐れるな、私はあなたをあがなった、私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ』。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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