6月17日(日)「い の ち」説教要旨
詩編36:6-10 ヨハネ10:7-15

  現代社会で、いのちが粗末にされ、小学生までが殺人を犯し、「動物は殺していいのに、人間を殺してどうしていけないの」という問いさえ発します。私が「いのち」ということを、本当に真剣に考えだしたのは、1990年ドイツからアウシュヴィッツに行こうと、列車で行く途中です。列車の中で、蜂が入ってきて、そこでアラブ系の青年が殺さず逃がした行為を見た時からです。それ以来、虫も殺さぬようになりました。

  聖書を見ると、昔から救済史、すなわち創造→堕罪→旧約のイスラエルの歴史→キリストの受肉→生涯→十字架→よみへの下降→復活→昇天→聖霊降臨→教会の歴史→再臨→神の国、これが西欧神学の中心です。使徒信条も大体この線です。しかし、これまでの救済史は、人間の救済が中心で、獣、植物などは入りませんでした。
  けれども、今日の聖書には、「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう。主よ、あなたは人をも獣をも救われる」とあります(詩編36:6-10)。またローマ8:21には、「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」とあります。「動物は殺していいが、人間はいけない」のではありません。動物も人間も共に、同じいのち(プシケー)をもっています。それを尊重しなくてはなりません。
  ただ人間は、もう一つゾエーという永遠のいのちのあることを知らされています。そしてこのゾエーとプシケーとは、類比でつながっています。永遠のいのちは、この世のいのちが終わる時、初めて顔を出すのではありません。今のいのちの中に、あなたが気がつくとつかないとにかかわらず、永遠のいのちの写し絵があるのです。だから今のいのちを大切にしなくてはなりません。

  聖書の初めに、いのちの木があります。そして聖書の最後、ヨハネ黙示録には、「小羊のいのちの書」(21:27)とあり、またさらに「渇いている者、いのちの水がほしい者は、値なしにそれをうけるがよい」(22:17)とあります。
  聖書はいのちで始まって、いのちで終わっています。特にヨハネ福音書では、「初めにことばあり、すべてのものはこれによってできた、このことばにいのちがあった。そしてこのいのちは人の光であった。しかし、光は闇のなかに輝いている。闇は光に勝たなかった」とあります。いのちは、光と水で表されることがしばしばです。
  イエス・キリストは、「わたしを信じる者は、生けるいのちの水が川となって、その腹からでる」と言われています(ヨハネ7:38)。
  このように考えてくると、人間中心の救済史の背後に、あるいは底流に、「大いなるいのちの流れ」があることに気づきます。使徒信条にも、最後に「永遠のいのち」が出てきます。それは聖霊の項にでてくることを忘れないようにしましょう。いのちは聖霊と関係があります。ローマ八章の被造物の救いのところにも、聖霊が出てきます。

  このいのちの大切さに気づかせてくれたのは、聖フランシスコです。彼は小鳥に説教し、狼に忠告します。彼は動物とも対話します。また太陽の賛歌を歌い、そこには「すべての造られたものによりあなたは賛美され、ことに兄弟なる太陽によって崇められますように。彼はわれらに昼をもたらし光を与う。かれは美しくいと大いなる輝きをもって照り輝く。おお主よ、彼はあなたの御姿を示す」。「私たちの姉妹なる身体の死のゆえに崇められます」よも歌っています。
  ヨハネ福音書10:7-15を見てください。ここには、いのちについて二つの言葉があります。ゾエーとプシュケーです。この二つは類比しています。プシュケーは、ただ愛のためにのみ捨てることができます。とすれば、永遠のいのち(ゾエー)とこの世のいのち(プシケー)とを結んでいるもの、それら二つを類比させているものは、愛にほかなりません。
  私たちが、この世のいのちを失い、天に友を送る時、それはその友を愛しているから、悲しみ、彼のために祈るのではないでしょうか。愛している者たちは、この死によって、隔てられません。信仰と愛は私たちを結びます。
  「神はひとり子を賜うほどに世を愛したまえり、これ彼を信じる者が、滅びずして永遠のいのちを得るためなり」(ヨハネ3:16)。キリストはご自身のいのちをもって、私たちに対するこの愛を示してくださいました。「よい羊飼いは、羊のためにいのち(プシュケー)を捨てました」。それは「羊にいのち(ゾエー)を得させ、さらに豊かに得させるためであります」。
  私たちの地上のいのちは、病気したり、傷ついたり、疲れたり、弱ったりします。しかし、それでもなお、これは主が与えたいのちです。それはひとり子が、ご自身の命をもって買い取ったものにほかなりません。ですから、愛と信仰を通して、永遠のいのちに通じるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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