6月10日(日)「たとえの意味」説教要旨
マタイ13:31-35

  イエスはこれらのことを、みなたとえを用いて群衆に語られた。たとえを用いないでは、何も語られなかった」。今日は、「たとえ」、「比喩」、「類比」、「類似」、(英語で)「アナロジー」、(ラテン語で)「アナロギア」について話します。これは信仰にとって大切なことです。戦後平和運動の盛んな時代、ある神学生がこう言いました。「私たちが求め、主張する平和はキリストの平和であって、それは天的なもので、地上的なものではない、平和運動をやっても、いまだに戦争はなくならないではないか。それは人間が罪があるからで、その罪をゆるす神との平和がなくてはならない」と。一理はあると思いますが、しかし、それではたとえば国際連合とか、ヨーロッパ連合とかの、地上の平和運動が、全く無意味でしょうか。もしそうなると、教会やキリスト者は、あの「よきサマリア人のたとえ」にある、祭司のように、隣人の苦しみを見てみぬふりする、抽象的な信仰にならないでしょうか。そこで大事なのが、この類比(アナロギア)です。

  私たちは主の祈りで、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたま」と祈ります。また「われらに罪を犯す者を、われらのゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」とも祈ります。ここにある「ごとく」が、類比です。天における御業のように完全には、この地上では行われません。しかし、それは「ごとく」でつながっています。私たちが人の罪をゆるすのは、気まぐれで、不完全でしょう。それは神が私たちの罪をゆるすようには、完全でありません。しかし、「ごとく」でつながっています。これは分かりやすく、池に映った月にたとえられます。池に映った月は、完全なものでありません。しかし、おぼろげながら、本物の月を映しています。鏡も同じです。鏡に写った自分の顔は、実際と全く同じではありません。しかし、メイキャップやひげそりするのに必要です。神への愛と隣人への愛をイエスは、第二もこれと「同様である」と言われました(マタイ22:39)。これも類比です。神への愛は、見えないもので、優れて完成されたものに違いありません。しかし、人への愛は、不完全で罪に満ちています。しかし、「第二も同様」と、イエス・キリストは、類比を示しました。神学者バルトはその教育論で言いました。「罪なる人間が罪人を教育することはできない。しかし、罪なる人間も、恵みを受けて、イエス・キリストの愛をを指し示すことはできる」と。まさに類比です。 

  類比にも二通りあります。「存在の類比」と「信仰の類比」です。分かりやすく説明しましょう。「神はご自分の姿に似せて、人をお造りになりました。そしてこれを男と女にお造りになりました」(創世記1:27)。つまり人間は、神が愛であるように、愛する存在として造られました。別な言葉で言えば、「対話の姿に造られました」、もし私たちの存在が、対話に造られていなければ、夫婦は愛することも、結婚することもできないでしよう。男と女は、愛につくられた、これは神の愛の類比です。これを「存在の類比」と言います。しかし、愛につくられたから、夫婦は常に愛し合うとは限りません。対話の断絶ということがあります。その時、もう一つの類比が必要です、「信仰の類比」、「行為の類比」、「恵みの類比」です。キリストの十字架に示されている、あのゆるしです。それは信仰において築いて行くもので。存在の類比ではなく、「信仰の類比」です。それはその時、その時で神から恵みとして与えられる、「恵みの類比」と言ってもようでしょう。

  この間、九十を越えた信仰者が、九十になってヨブ記の意味が分かったと言った時、若い婦人が、「それでは私たちはまだだめですね」と言いました。そうではありません。パウロは、「私はすでに捕らえたとか完全になっているとかではないしかし、キリストが私を捕らえている。だから、その到達しえたところにしたがって歩もう」といっています。それが類比です。小さな幼稚園の子の、「明日の遠足の天気を祈る祈り」も、馬鹿にできないのです。その子の到達したところで、精一杯の祈りをしているです。信仰は完璧症、潔癖症ではありません。私たちはどの段階でも、神の御業の類比はできるのです、比喩可能性と言います。しかも、どんな時も、比喩が必要です。これを比喩必要性といいます。恵みによって歩む生活は、この比喩可能性と比喩必要性に支えられています。だから安心してよい。だから励まねばなりません。類比が可能です。あなたはできる、教育することもできる。しかし、完全にはできません。そこで類比が必要です。それだから類比が可能です。私たちの信仰生活は、常に、完全と駄目の間にあります。それは比喩です。類比です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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