5月20日(日)「一 人 あ れ ば 」説教要旨
マラキ1:9-10

   「あなたがたがわが祭壇の上にいたずらに、火をたくことのないように、戸を閉じる者があなたがたのうちに、一人あったらいいのだが」(マラキ1:10)

  マラキは、イスラエルが捕囚から帰って、神殿が建設され、そこに正しくない礼拝がはやった時、それをきよめる預言者でした。今、そこで「否」を語る一人の人が求められています。「あなたがたのうちに、一人あったらいいのだが」と。
  「一人」というのは、聖書の基本的姿を表しています。イエス・キリストは、「これらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25:40)と言われました。また九十九匹を野において、一匹の迷う羊を求める羊飼いの姿こそ、信仰の中心であることを語りました。まさに一人の名を重んずる信仰にほかなりません(名の神学)。

  そもそも神はただ「ひとり」です。一人の人間の大切さは、この一人の神から来ます。それだからキリスト教のような一神教から、一人の人権を重んじる考えが発展したのです。多神教の日本では、なかなか集団主義的傾向があって、一人を貴ぶ人権尊重は育ちにくいのです。たとい人権が言われても、自己の人権のみいう利己主義になりやすいと言うこともできましょう。
  さてマラキは、たといまわりは全部間違っていても、「否」と言う人が、一人いたらいいのだがと言います。一人で正しいことを言う勇気は、真の信仰から来ます。ひとりの神を信じる信仰です。
  この間、新幹線で女性がわいせつされるのを、40人ぐらいいた乗客は黙っていたというではありませんか。これは一人の「否」の正反対です。またそれは「よきサマリア人のたとえ」(ルカ10:30以下)と正反対ではないでしょうか。
  あそこにも、「一人」があります。場所は、人なき暗い場所、そこに一人のユダヤ人が、強盗に会い、半死半生の目にあいました。この傷ついた重症の人は、一人そこに横たわっていました。祭司が来ましたが、見て見ぬふりして通り過ぎました。そこは一人と一人、1対1です。もし街の通りで、何十人もいるなら、事は全く違ったでしょう。祭司は、率先して、このユダヤ人を助けたでしょう。その場合、真理ではなく、自分の評判が問題だったことになります。「一人」、実は、そこが宗教的世界なのです。親切なサマリア人は、この1対1の宗教的世界で、神と対面したのです。

  イエス・キリストは一人で十字架のつけられました。友人、弟子に囲まれ毒杯を飲んだ、ソクラテスとは違い、イエスは、弟子たちも皆逃げ、ただ一人で十字架にかかります。そして同じく十字架につけられた一人の盗賊のみが、一人の信徒、弟子でした。
  しかし、私たちも年を取ると、一人を感じます。死ぬ時は、誰も一人です。しかし、絶対に忘れてはいけません、そこは決して「たった一人」ではありません。イエス・キリストが、「あなたは今日、わたしといっしょにパラダイスにいる」と言われることを忘れてはなりません。
  エリヤは偶像神バアルの預言者に囲まれて、一人真の預言者でした。彼は一人になりますが、しかし神は、言われます。「われバアルにひざをかがめぬ者七千人をわがために残しおけり」(ローマ11:4)と。しかし、今日の時代は七千人を目当てにしますが、その七千人は、神が備えたもう者です。ただ一人の真の預言者エリヤから始めなくてはなりません。時代は、七千人ばかり問題にします。世論調査はどうでしょう。真理は一人にある場合もあるのです。コンピューター社会は、数が基礎にあります。しかし、そこでこそ「一人」の問題が、新しい二十一世紀の問題となります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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