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4月15日(日)「われなり恐るな 」説教要旨
マタイ14:22-33

  嵐の湖の中で恐れている弟子たちに、イエスは「われなり恐るな」と言われます。「わたしである」。それは英語で言えば“I am”で,聖書の原語のギリシア語では、「エゴー・エイミ」です。
  このことは非常に大切な言葉で、信仰の中心です。特にヨハネ福音書に多く出ています。「わたしは、いのちのパンである」(6:35)、「わたしは、よい羊飼いである」(10:14)、「わたしは、よみがえりであり、命である」(11:25)、「わたしは、まことのブドウの木である」(15:1)等々。
  私たち人生は、この「わたしである」に支えられています。この世では、たとえば「本質は何か」(What)を問います(哲学)。「いかにし」(How)を問うのは科学です。しかし、「わたしである」という人はいません。

  しかし、ここでペテロは嵐の中で「わたしである」というお方を信じられません。半信半疑で試してみようとします。しかし、それはうまく行きません。
  トマスがそうでした。イエスの手の釘跡に指を差し入れて見なければ、復活を信じない、と。しかし、イエスは言われます「見ずして、信ずる者は幸なり」と。この「わたしである」に呼応するものは、「わたしは信じます」です。
  使徒信条も「われは信ず」です。「みんなで信じましょう」とは言いません。「わたしである」にふさわしいものは。実験でも観察でもありません。「われ信ず」です。

  この出来事の初めを見てください。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」。つまり、弟子たちは気が進まないのに向こう岸に先にゆかせられたのです。ここには、私たち人間の意志でなく、イエスのご意志が働いています。
  私たちの生活の中にも、そのような別なご意志が働いていないでしょうか。なぜ私たちだけを嵐の海に置き去りにするのか、その意味は今は分かりません。嵐をくぐり抜け、苦しみ悩んだあげく、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ、その時まで分かりません。
  いや、イエスが「強いて」私たちを嵐の海に送り出したのも、実は、そこに隠れたキリストのご意志があったのではないでしょうか。主を賛美するまで、私たちには本当の主のご意志は隠されたままです。これまでも確かに、少しは信じていました。しかし、この試練を経るまで、本当には信じていません。しかし、主がことを知らさずに、事を行われる、その時、偉大なことが行われるのです。
  反対に私たちがすべてを承知して、行う時、それは私たち人間の計画内のことが起こっているに過ぎません。いや、そういう時にかぎって、私たちの計画さえ行われない場合も多いのです。神は私たちの思いを越えて、すばらしいことをなさいます、ここで起こっていることの核心は、運命の波でも偶然のいたずらでもありません。恵みの強制「強いられた恩寵」です。 

  私たち信仰者のこぐ舟は、世の反対の波にもまれ、世俗の風に吹き荒れて、飲まれそうになります。人間の力は、わずか数百メートルのところで尽き果てます。信仰も経験も神学すら役に立ちません。夜通し悩みこぎ続ける弟子たちにとって、イエス・キリストはいないかに見えます。そういう時、祈れば祈るほど、事態はますます悪くなるばかりです。その時、外の嵐ばかりでなく、内にも嵐が起こります。弟子の心は混乱します。そうした混乱した心には、海の上を歩いてこられたイエス・キリストの姿さえ、幽霊に映ります。しかし、それがイエスなのです。「わたしである」と呼びかける当のお方なのです。

  そこで思い出しましょう。イエスは「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」。 混乱した弟子たち、私たちは、このひとり山に登り祈られる主に支えられているのです。
  そこでペテロは実験しました。「ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』 イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」。しかし、風を見てこわくなり、おぼれかけました。
  皆さん、イエス・キリストを実験した結果は、このありさまです。イエスは「信仰薄い者よ」と言われます。しかし、イエスは、私たちの半信半疑を、受け入れます。私たちのために祈りたもう主は、半信半疑でも信仰のあることを認め、「来れ」と言ってくださいます。この少しの信仰が大切なのです。
  疑っているペテロは沈みます。しかし、沈む、疑うペテロを支えるの御手を疑うことはできません。信仰とは、こういう二重の構造をもっているのです。疑いを越えて行く信仰です。私たちの生活と信仰がそういうものであることをイエス・キリストは、ご存じなのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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