3月18日(日)「運 命 と 摂 理 」説教要旨
マタイ10:24-33

  日本では宿命的な考え方がかなり支配しています。「はかない」とか「仕方がない」という言葉は、日本人のよく使う言葉です。
  背景に人格的神のない日本では、多神教で八百万の神々がいます。非常に現世的で、永遠なる世界はありません。神々は、私たちと同じ人間の顔をしていて、したがって、人は死ねば灰になるとしか考えません。
  「私たちのヨーロッパ文化の輸入は、ヨーロッパの精神の基盤であるキリスト教の信仰やギリシア以来の倫理、哲学にまでおよんでいない。私たちの精神的根底には、その意味で全くの空白があり真空がある。現在のわが国における多彩な文化も空白のうえに揺らぐ影にすぎない。最も悪いことは、その空白が決して戦いとられた空白でなく、伝統の断絶によって自然に発生した空虚だということである。私たちの危機は二乗された危機、つまり危機にあるのみならず、危機が危機として自覚されていないことである。ニーチエ、ハイデッカーなどの創造的ニヒリズムはいわば絶望のニヒリズムを超克する試みであった」(西谷啓治)。
  とすれば日本にあるのはニヒルな気分だけで、真の絶望ということはありません。なんとなくはかない気分、そこに科学技術が入ってきてひとたまりもありません。技術の虜になって、人間の精神とか命がおろそかにされます。
  「運命と摂理」の違い、運命には、背後に偶然か、何か得たいのしれないものしかありません。しかし、「摂理」の背後には、愛なる神、天地万物を創造された神が生きています。太宰治の『とかとんとん』で、ニヒルになった人への小説家の言葉は「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」でした。これはすごいことではないでしょうか。ここには「恐れるな」が、繰り返し貫かれています。

  第一に、恐れる必要のないことは、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。今は暴力で押さえられ、小さい言で言っていることも、いつかきっと必ず明かになります。やがてその証しが全世界のものになります。キリストの真理は隠れていません。しかし、神が見ており明るみにだしてくださるなら、何も恐ろしくはありません。目に見えるものは、見えないかのごとく、見えない神は見えるように生きなさい。信仰とは、この神を見て生きることにほかなりません。 

  第二、悪魔にできることは、からだだけで、魂にまで影響をおよぼさないことです。しかし、「からだあっての物種」と言うかも知れません。しかし、からだだけを考えていたら、からだも駄目になります。魂のこと永続するものに目をむけなさい。
  神は永遠であって、からだと魂とをお造りになったお方です、したがって、からだとと魂を滅ぼすことができます。またからだも魂も救うこともできます。だから彼らを恐れる必要はありません。永遠の悪魔というのはありません。

  第三、神が最も小さいものに目を向けて、それをも守ってくださることです。
  神は、一円で売られるような小さい雀をも守って、それに全力をあげてくださることを知りなさい。この最も小さいものにおいて神は最も大きいと知ったら、恐れや劣等感など吹き飛ぶでしょう。
  しかし、人間は大きくなると小さいものに目をとめなくなります。しかし、神の大きさは、それとは違います。野の百合、空の鳥、あすは炉に投げ入れられる野の草に、神はそのご配慮の手を休めません。それが神の摂理です。
  しかし、「小鳥が寒い冬に死んでいるのを見る」と言うでしょう。確かに小鳥も凍死することがあるでしょう。しかし、ここでは小鳥などが不死だとは言っていません。いや人間もみな死にます。
  しかし、「雀の一羽さえ、父なしに死ぬことはありません」。死は信仰において神の恵みです。小さい部分だけ取ってみると恐怖であっても、大きい神の広さから見ると、すべては輝いています。今、人となられた神の子イエスこそ神のご計画を表すお方にほかなりません。最後に恐れのみならず、神はすべてのことを信仰において、良いことへ変えてくださるのです。
  「み旨ねによって召された人、神を愛する人にはすべてのことが相働いて益となる」とあります(ローマ8:28)。今は、「神と共に」でしたが、ここでは悪いことがよいことと「共に」です。悪が益に変わるのです。それが神の摂理です。
  運命や宿命は、あるマイナス面が出てくると、さらにマイナスを考え、このマイナスは何ものかによって操られていると考えるのです。しかし、摂理という時、同じマイナス面があっても、そこに神の愛を見て、マイナス面をプラスに変えてくださることを信じるのです。しかし、信じなくてはなりません。その時、相働くというのは、マイナスとプラスとが互いに働くという意味です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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