3月11日(日)「大いなる生命の流れ」説教要旨
ヨハネ4:14

  「病気になった時、その病気に捕らわれるのでなく、大いなるいのちの流れの中にあることが大切です」(ブルムハルト)。
  このいのちの流れは聖書全体を貫いています。「永遠のいのち」と言ってもよいでしょう。「流れ」は水にも光にもあります。初めに神が「光あれ」と言われると光がありました。「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る」(詩編36:9)という、あの神の栄光の光です。
  また聖書は、いのちの水とも表現します。光、いのち、水が、この永遠のいのちの流れを象徴するものです。ヨハネ福音書は特にそれを記します。「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。すべてのものはこれによってできた。この言葉にいのちがあった。そしてこのいのちは人の光であった」。
  スカルの井戸でサマリアの女と話す時、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちに至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)といわれます。また「だれでも渇く者は、わたしのところに来て、飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:38)。
  さらに病めるラザロが出て来ます。「この病は死にいたらず」といわれます。そこで「わたしがいのちでありよみがえりである」といわれます。生命の泉、すべてのものに広がっている、この「大いなる生命の流れ」を見失ってはなりません。

  確かにそこには邪魔が入ることがあります。今、正のものと負のものとを並べて見ましょう。
  • 正−創造、光、いのちの水、ロゴス、愛、望み、信じる、喜び、真理、感謝、恵み

  • 負−病、憎しみ、怒り、恐れ、疑い、ねたみ、偽り、悪魔


  そして、私たちは「試み、苦しみ」をその中間におかなくてはなりません。なぜなら、その二つは、正とも負ともなるからです。「死の陰の谷は、神の子にとって暗くはありません。そこには光があるはずです。でなければ、陰があるはずがありません。イエスは光です。死に打ち勝たれたのです」。
  それは復活のいのちです。エマオ途上の人は、イエスといっしょに歩いていながら、それを知りません。イエスは十字架で死んだと思い込んでいます。このように悲しみの人は、人生の半分しか見ていません。もう一つの半分があって、全体を飲み込んでいるのです。それは悲しみの人と共に歩む復活のキリストです。
  悲しみ人は十字架しか見ず、復活の主を知りません。しかし、その復活を知らせるのは、復活の主ご自身です。悲しみの人は、過去ばかり見ています。将来を見ません。その「望み」も過去になっています。復活の主ご自身が、今私たちに復活を知らせます。
  大いなる生命の泉よ、あなたの流れは、私の中にも、今日も流れています。試みと苦しみとは、負のテーブルにはありません。それは正のテーブルにもありません。 その中間です。それは負のテーブルあるすべてのものを乗り越え、正にするためにあります。「初めに言葉あり、この言葉にいのちがあった。そしてこのいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして闇は光に勝たなかった」。私たちは永遠なる神に呼ばれてここにいます。その時、病も死も克服されています。病み衰えても、私は私だけではなく、子々孫々に続いて行く永遠のいのちの流れの中にあるし、宇宙全体の生命の流れの中にることを忘れてはなりません。
  マリアが、「終わりの日、よみがえりの時によみがえることは存じております」と言った時、イエスは言われました、「われはいのちなり、よみがえりなり、およそ生きてわれを信じる者は、たとい死ぬとも生きん。また生きていてわたしを信じる者は、とこしえに死なざるべし」と。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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