2月18日(日)「レプタ二つ(時と永遠)」説教要旨
マルコ12章41節-44節      

  「イエスは目を上げて富んでいる者たちが自分たちの献金をさい銭箱に投げ入れるのをごらんになりました。 またある貧しいいやもめがそこにレプタ二つを投げ入れるのをごらんになりました」。
  イエスは目を留めるもの、それは最も小さいものです。この物語を読むと、献金のこと、私たちが捧げる何かだと勘違いして言います、「この捧げ物は、レプタ二つに過ぎませんが」と。しかし、それはイエスがここで言っている趣旨と違います。その人は自分の捧げ物の少なさを言い訳しているのです。しかし、イエスが目を留めたのは「みんなの者は、ありあまる中から投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからです」。その全力に目が留まったのです。

  今日の説教題に「時と永遠」という副題をつけました。レプタ二つは、この時間の世界の事に過ぎません。それもレプタ最小の貨幣、日本で言えば、二円です。そのわずか二円が、永遠の神を表すのです。
  その後の物語と比べてごらんなさい。「弟子が神殿について、きれいな石で飾られているその立派さについて話している時、イエスは言われました、 『あなたがたの見ているこれらのものが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることがなくなる日が来るでしょう』」。弟子たちの見たもの、そして驚いたのは、「みごとな神殿の石」でした。それは田舎から出て来た弟子たちの心を揺さぶり、驚嘆させるに十分だったでしょう。また神殿そのものも、永久に建っているかに見え、目を見張るのに十分でした。
  しかし、神殿を建てたソロモンは、自分およびこの世のものの小ささを知っていました。もちろん目に見える偉大さに驚くのは人間の自然でしょう。それは近代建築の何十階建ての鉄筋のたてものにも比肩することができます。しかし、それはバベルの塔かもしれません。  

  イエスが問うのは、決して外面的な行為ではありません。イエスはいつもじっと、あなたの行為の奥をごらんになります。富んでいる者と貧しい者とが神に捧げている、その見える手と、見えざる心とをごらんになります。このさい銭箱は、トランペット型で、上は細く中は広がっていたと言われています。あたかも狭い門が中は広いように、小さな行為の真の価値をごらんになります。イエスの鋭い目は、ものの表面を越えて、内実をごらんになります。
  あのタラントのたとえの(マタイ25:14以下)、五タラント、二タラントの者は、それぞれもう五タラント、もう二タラントをもうけました、つまりそれは、全力を尽くしたことにならないでしょうか。5÷5は1で100%です。2÷2も1で100%です。このやもめも、今、自分の全部を捧げたのです。
  イエスの評価は、一般の評価と違って、「出した額の多寡によってではなく、残っている額の評価によってきまります」。「惜し気もなく与える人の気前の良さは結構でしょう。しかし、その人びとになお与えるべき多くのものが残っているならば、神の御前において、その価値は、自分自身にほとんど何も残さない人の、わずかな贈り物の価値よりも小さいのであります」。

  この真理は、ただ金銭だけの真理ではありません。わたしたちの労働・時間・仕事などすべてに当てはまるでしょう。わたしに何が残っているか、そのことこそ大切なことです。つまり残らない、無になる、それはただ空しくなって、神により頼むことにつながるからです。
  わたしたちが無になる時、神は無限大になって、惜しみ無く与えてくださる神となるでしょう。反対にわたしが大きいと、神は小さいのです。あの十字架の神は、すべてを与え尽くす神でありました。御自身の御子をも惜しまずに与える神は、どうしてそれ以外のものを惜しみたもうでしょうか(ローマ8:32)。

  聖書では、この世の歴史では、顧みられない人びとが、大きく取りあげられています。世界的英雄はどこにいるでしょうか、やもめのレプタ二つ、あのマリヤのナルドの香油、弟子に与える一杯の水、神の歴史には、これら目だたないものが覚えられるのであります。
  それは世界史からみれば、隅の歴史にすぎませんが、神はそれを隅の首石としてくださるのであります。なぜならば、それはあの十字架のように、まったく単なる死刑囚の死にすぎないもの、それを神は人類救いの基礎にすえてくださるようなものであります。十字架にあう行為それのみが、人生において尊いのであります。それは小さなレプタ二つで、それは彼女の全力をあげた捧げ物でした。それは天に通じたのです。つまり時間の中でした、小さな業が永遠に通じたのです。つまり、時と永遠がこの物語の中心なのです。
  ですから永遠とは、決して天国だけのことではありません。今、ここで、小さなレプタ二つが永遠に通じるのです。あなたにもできないことはありません。   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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