1月 28日(日)「 祈 り の 本 質 」説教要旨
マルコ11章20節-26節      

  「祈りて願うことは、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし」(マルコ11:24)

  ルカは「祈りの福音書」です。たとえ話も祈りのテーマが多くあります。今日学ぶ一つは隣人の困窮の話(11:1以下)、もう一つは社会的政治的権力との戦い(18:1以下)です。きわめて今日的問題です。難民問題、独裁者の問題などはそれにあたります。聖書はこの現代的課題を、神とのかかわりで考えて行こうとします。それが祈りです。

  初めのたとえは真夜中です。善人はみな寝静まり、悪人のみ働いています。その真夜中に友人が腹ペこで訪ねてきました。しかし、あいにく家には食べ物が何もない。
  そこで親切なこの人は、もう一人の友人(これは神さまなのですが)のところに行き、「友よ、パンを三つ貸してください」と頼みました。しかし、中からは「面倒をかけないでくれ、もう戸は閉めてしまった。子供たちも私も寝所に入っている。あしたにしてくれ」とつれない返事です。
  この腹ぺこの友をほってはおけない。私たちがもし祈りの本質を理解しようとするなら、この聞かれない祈りの現実を、第一に考えなくてはなりません。「しかし、よく聞きなさい。友人だからというのでは、起きて与えないが、しきりに願うので」。聞かれない祈り、それこそ本当に聞かれる祈りの初めです。これは人間の関係ではありません。神様と人間との関係です。私たち人間関係が、神との関係にもたらされる。人間の困窮が、神の困窮にもたらされる。それが祈りの本質にほかなりません。
  「しきりに願うので」、この「しきりに」とは、「厚顔、ずうずうしい」という意味です。これが神との関係を表しています。神との関係は、「ずうずうしい」で表されるような関係でなくてはなりません。おっとりすました、お上品では、そもそも祈りになりません。

  その答えは次にあります。「友人だからというのでは、起きて与えないが、しきりに願うので、起きて必要なものを出してくれるでしょう」。
  「友人だから」。もう何十年も信仰してキリスト者で過ごして来て、神様とは、とても親しい、その神様との特殊関係を当てにして、願っても与えらない。つまり、私たちと神様との関係は、慣れ親しんで、親戚見たい、友達みたいな日常関係、なれっこになっていないでしょうか。
  それでは与えらません。「しきりに願うので」、単なる願望は信仰ではありません。おっとりすました祈りは、信仰ではありません。漠然と神を頭に描くことが信仰ではありません。静かな教理、でもありません。
  あの十字架の恥をさらした神と共に、私の恥をさらし、みえも外聞も忘れて、隣人のために求め、戦い、苦しみ、汗する。自分自身の困窮に気づいて、貧しい困窮の中にある十字架の神と共に、揺り動かし、苦しみ、求める。全身でゆすれ、なりふりかまわず、あなたの全人格、全生活をかけよ、その時、神は死んだ神ではなく、三日目によみがえって、起き上がり、必要なものを必要なだけ与える神となるでしょう。

  もう一つのたとえは、もっと政治的背景があります。「ある町に神を恐れず、人を人も思わない裁判官がいました」。これはもちろん国家権力を指しますが、私たちのまわりには、もっと目に見えない権力も存在します。たとえば「運命、宿命」、それはまことに「神を恐れず、人を人とも思いません」。それは大衆ファッシズムのようなものかもしれません。
  弱いやもめは、その権力者のもとに行って、正義の戦いを始めました。このやもめは、ほとんど力も金力も権力ももっていません。たったひとつ祈りのみをもっていました。信仰者が生きている現実、「神、それが何だ、人権、そんなことを考えていたら、商売ができるか」、その現実です。私たちは信仰者といっても、ただ神さまだけとかかわっているだけではありません。多くの時、この世の不正な裁判官とかかわっています。
  しかし、その不正な裁判官が言いました。「わたしは神を恐れない、人を人とも思わないが、このやもめは、たえず煩わすので、正しい裁判を行おう」と言います。この不正な裁判官が、ついに正しい裁判をした、この事実を聞かなくてはいけないのです。この悪い裁判官が、急にやもめの願いを聞いて、悔い改めたとは書いてありません。裁判官を正義の裁判官に変えることはできません。それは人間の仕事ではありません。しかし、驚いたことに、その悪い裁判官が、正義の裁判をするのです。権力は、正義の理論で動きません。しかし、たえずぶつかってゆくやもめの愚かさ、信仰の愚かを通して、動かされるのです。それは祈りです。

  皆さん、祈りとはそういうものです。神の愚かが人よりも賢いのです。「すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし」。祈りとは、この愚かな行為です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.