1月 14日(日)「神の方法」説教要旨
   ヨブ33章:14      

  ヨブが「わたしはいさぎよく、とがはない」と言うのに対し、友人は「あなたはこの事において正しくない。神は人よりも大いなるものだ。あなたが『彼はわたしの言葉に少しも答えられない』といって、神に向かって言い争うのは、どういうわけか。神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるだが、人はそれを悟らないのだ」と答えました。

  今日の原理主義者は、自分の考えるただ一つのことが正しいと確信するのです。しかし、神はもう一つの方法をもっておられます。この二つとは、「恵みと自然」と考えることができます。
  この二つは矛盾するように見えます。しかし、「恩寵は自然を破壊せず、かえってこれを完成す」と、中世最大の神学者トマスは言いました。聖書には二通りの信仰の姿が描かれています。パウロは自分は激しい形で回心し、罪の意識も強く、キリストの十字架、復活に出会いました。そのパウロが、もう一つの信仰の在り方を知っていました。「律法を知らない異邦人が自然のままで、神のみ旨ねをおこなうなら、その人にとって彼ら自身が律法なのです。この人は神の要求がその心にしるされ、良心の律法をもっている」(ローマ2:12-16)と。
  しかも、それはイエス・キリストなしにでなく、「私の福音によれば、神がキリスト・イエスによって隠れたことをさばかれるその日にあきらかになる」とあります。つまり「自然の信仰」は、天国でイエスに通じるのです。

  この二つは並行線ではありません。恩寵は、自然を破壊せず、そのままにしておくのではありません。これを完成するのです。
  このローマ2:14の自然の律法もそれはついにキリストに流れて行く、川に過ぎません。しかし、このように神の方法が二つあることを、人は、ふつう悟りません。
  バルトは教会教義学の中で記しています。「私たちはイエス・キリストを宣べ伝える教会とキリストの言葉を想起しました。しかし、私たちは、他の真実な言葉が、『教会の壁の外で』も語られることを考えないでよい重要な理由は存在しません。イエス・キリストがまだ信じているとみなされていない人びとによっても、その真実な言葉が語られたことを、あるいは、自覚的また無自覚的キリスト者によって、直接その信仰告白そのものを通してでなく、キリスト教会の働きを通してでなく、むしろ間接的に世俗社会の秩序とさまざまな働きを通して、その真実な言葉が語られることがある」。「それらの言葉は、真実な言葉でありつつ、神のただ一つの言葉とは区別されねばならないが、・・・それらの言葉は、神のただ一つの言葉に奉仕し得る」と。
  ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」は、次の言葉で終わります。「抱き合うがよい、幾百万の人びとよ!この口づけを全世界に贈ろう!兄弟よ! 星のきらめく天空のかなたに必ずやひとりの慕わしい御父がおられる。ひざまづいているか、幾百万の人びとよ?造り主の存在を予感するか、世界よ?その方を星空のかなたに探ねるがよい!星々のかなたに必ずやその方はおられる」。

  この詩を書いたシラーは、ロマンティークの影響を受け、自然のかなたに、御父を見たのでしょう。しかし、そこにはバッハの「マタイ受難曲」の深みはありません。
  しかし、それはそれでよいのです。イエスもその自然を指さし、「空の鳥を見よ、野の百合を見よ」と言いました。それはもちろん野の百合を造られた創造主を見よというのです。
  しかし、もう一つの神の方法があります。すべての人は、罪を犯したゆえに、神の栄光を受けるに足りない。そこで神は、御子を送り、神の愛の犠牲とされました。前者はだれも分かる。ベートーベンは誰にも分かる。シラーは、子供でも分かる。ただ神のもう一つの方法があることを忘れてはなりません。真理はそこで完成するのです。「恩寵は自然を破壊せず、かえってこれを完成す」。
  お解りでしょうか、この二つの神の方法の関係が。もし前者(自然の信仰)を否定したなら、それは狭い信仰に成り下がるでしょう。しかし、後者を否定したなら、それは薄っぺらい、おめでたい信仰に成り下がるでしょう。「あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない』と。しかし、神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるだが、人はそれを悟らないのだ」。人間の傲慢を砕くために、神は人となられました。ベートーベンの第九交響曲、ベートーベンは苦難の末、耳の聞こえない孤独の中で、勝利を勝ち取りました。イエスは自然の中にいまし、自然を超えていまし、自由に自然を用いたもうと共に、しかも、この自然では解決できない罪の問題をよくご存じです。それを自らからに担うことを通して、全被造物の苦悩を負われたのです。しかし、二つではない、それは一つの方法です。一つが二つに別れるのではありません。また並行線でもありません。一つが二つで、一つなのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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