12月11日(日)「バプテスマのヨハネの誕生」説教要旨
   ルカによる福音書 1章57節〜66節

 アドヴェントが来て、クリスマスがくる、まるで年中行事になっていませんか。アドヴェントの意味、それは「待つ」ことです。ザカリアは待っています。一つは自分の子供の生まれるのを、もう一つは、イスラエルの望みである救い主の生まれるのを待っています。一つは、個人的な事、もう一つは神の歴史のことです。前のこと個人的な事は、老齢で望みがなくなり、救い主を待つこともマンネリ化しました。自分の個人的な望みが消えると、救い主といっても上の空になりませんか。病気になって、自由がきかなくなると、キリストのことなどどうでもよく、病気がなおることに集中してしまいます。私たちは自分の願望がかなっているうちは、救い主、クリスマスなどと言いますが、願望がかなわない緊急の時、クリスマスなどどうでもよくなります。しかし、個人的な望みと、客観的な救いの歴史の望みの二つはつながっています。本来バプテスマのヨハネの誕生の物語は、私たちの「待つ」ことのマンネリ化を防ぐ役割をします。今日も、「新しく待ちなおす」必要があります。ちょうど腰掛けている人が座りなおすように、マンネリ化した信仰も待望も、「新しく待ちなおす」必要があるのです。習慣化した信仰には力がありません。果報は寝て待てでは力になりません。ザカリアの祈りは、聞かれたのです。それなのに彼は信じることができませんでした。それは、祈りも信仰も、マンネリ化しているからです。「あなたの祈りが聞き入れられた」と天使が言っているのに、ザカリアは、「どうしてそんな事がありえましょう。私は老人ですし、妻も年をとっています」と答えます。彼には神への信仰ではなく、宿命が支配しています。神の力よりも、宿命やこの世の自然の力の方が、強いのです。私たちの生き方には二つが交錯しています。一つは宿命的歴史観。それだけならあきらめ人生です。しかし、もう一つあります。救済史的歴史観(救いの歴史)神の歴史です。信仰的な時は、救いの歴史観が支配しています。しかし、その間にちらちら宿命的歴史観が顔を覗かせていないですか。ザカリアも宿命的でした。そのため「口がきけなく」なります。私たちも病や失敗を通して何も言えなくなります。しかし、アドヴェントは、「待ちなおす時」です。私たちに待望を学ばせる時です。ただその強制的沈黙は子が生まれる時までです。その時、語り出します。アドヴェントは沈黙を学ぶ時、それは神の偉大な力を学ばせるのです。
 アドヴェントは、「来る」こと、到来に向かって待つのです。救い主は来られるのです、それに向かっているのが信仰の姿勢です。したがってその祈りは、「主イエスよ来りませ」です。そしてその到来する時、個人的な事と神の事とがつながるのです。ザカリアの所に生まれる子供は、バプテスマのヨハネ、実に救い主の証しをする人でした。私たちも同じです。キリストを指し示す点においては。そこで神を見あげ、救いの歴史に目がひらかれると、力が涌いてきます。ところが、この老夫婦は、この神の偉大な救いの歴史に目が開かれていません。二人の間に子供がありません。しかし、神がことをなさる時、アブラハムの場合も、ハンナの時もそうでした(サムエル上一章)。実りがない、成果があがらないと私たちが思っている時、これほど神が事をなさるのに、有利な時はありません。人間の側に、希望が消え果てている時、それは神が事をなさるには、有利な材料なのです。
 ただ一つ、神の約束が信じられるならばそうなのです。ある意味で、神が真の救いを成就する時、人間の助けなしに実現なさることが多いのです。あらゆる反対と障害にもかかわらず、反対の所に、神は約束の実現の場所をこしらえます。神が事をなさっているのです。不思議ではありませんか。ザカリアは、「あなたの祈りが聞きいれられたのです」と言われたのです。長いこと祈っていた、その当のことが聞かれたのです。では彼は聞かれないことを前提として、祈っていたのでしょうか。私たちは神の言葉を聞いている、しかし、信じてはいない。祈ってはいる、しかし、信頼してはいない。みんな既製の観念で、神を測っているのではないでしょうか。神は、私たちの思うところ願うところよりも、はるかに優ったことをなさる神なのです(エペソ三・二〇)。誰も、クリスマスに起こっていることを作りだせません。神のなさることに、手助けすることさえできません。そこでは人は、みな無力にすぎません。ザカリアとその妻とが、正しい人で神の戒めと義を欠けなく行っていたということも、何の助けになりません。しかし、時は満ちます。私たちの沈黙は、その時までです。祈りと沈黙をへて、私たちは神の器とされます。沈黙の時が長ければ長いほど、神の出来事は、力強く伝えられます。しかし、そこで生まれた人はイエスではありません。バプテスマのヨハネ、イエスを指し示す人です。私たちはイエス・キリストにはなれません。しかし、バプテスマのヨハネにならなれます。 

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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